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  • そばのルーツ

    日本のそばのルーツはDNA分析から中国の雲南省からヒマラヤあたりであろうと推測されている。高知県で9000年前の遺跡からそばの花粉が見つかり当時からそばの栽培が行われていた可能性が論議されている。

    奈良時代前期に天正天皇により雨が少なく稲の収穫が見込めない年にそばの栽培が推奨されたと言う記述がある。しかし、そばの歴史の中で麺としての蕎麦が誕生するのはずっと後の事である。麺としての蕎麦いわゆる蕎麦切りは16世紀の頃に誕生し江戸期に入り製法が打ち立てられたと考えられている。

    それではその蕎麦切りはどこで最初に作られたのかと言う事になる。芭蕉門下の俳人許六が宝永3年(1706年)に編纂した「風俗文選」の中で蕎麦切りとは信濃の国本山宿より出て国々にもてはやされるようになったと言う説を紹介している。現在塩尻市本山は蕎麦切り発祥の地として蕎麦で町おこしを行っている。甲州天目山栖雲寺には蕎麦切り発祥の地と言う大きな石碑が建っている。尾張藩の国学者天野信景が蕎麦切りは甲州天目山栖雲寺の参詣の人々に米麦が少ない地方の為ソバをこねて提供したのが始まりと書き残している事による。当然こちらも蕎麦切り発祥の地を名乗っている。江戸を発祥と言う説も色々とあり定かな事は分からない。各地で自然発生的に作られて来た。うどんを手本に作られたのではないか等の仮説も多々ある。どちらにしても以後広く普及したと言う事は蕎麦切りがとても美味しい食べ物だった事に間違いない。

    蕎麦が江戸で人気を呼び、扱う屋台や店が瞬く間に増えて行く。武家、町人を問わず江戸の人々に支持された事が窺い知れる。

    蕎麦切りには蕎麦つゆが無ければ始まらない。当時蕎麦つゆに必要な醤油や味醂も水運を使い野田や銚子、流山等から江戸に集まって来ていた。それらも江戸で蕎麦文化が花開いた条件として関係がある物と思われる。幕末の頃には江戸の蕎麦店は3700件を数えたと言われている。

    各蕎麦店による創意工夫により考案された蕎麦もある。蒲鉾や椎茸等でおかめの面をかたどった「おかめ蕎麦」は下谷七軒町の「太田庵」の創案。「鴨南蛮」は馬喰町の笹屋治兵衛の創案とされる。創業150年となる浅草橋の江戸蕎麦手打ち処「あさだ」の鴨セイロ、鴨南蛮は評判が良い。明治期に大阪で考案されたとされる「カレー南蛮」もファンが多いメニューである。明治35年創業日本橋「やぶ久」。評判のカレー南蛮には辛さが普通と辛口の2種類ある。それぞれ冷たい蕎麦のつけセイロがあり肉も鶏と豚が選べる凝りようである。明治17年創業の名店神田「まつや」のカレー南蛮は作家池波正太郎もそれがまた、うまいと評している。新橋「能登冶」は安政年間に能登屋として創業し明治になり明治の冶を取り能登冶として屋号を改名し現在6代目が営業。明治5年開店時の店の大家が浅野家出入りの大工であったので浅野屋を名乗ったと言う「神田浅野屋」。東京の蕎麦店には歴史と共にいわれも色々ある物である。

    *こねて団子状/切ったものには蕎麦の字を使用。
  • 蕎麦屋の屋号

    伝統的な物であろうか蕎麦屋の屋号に何々庵と言う屋号を良く見かける。客の方は店名にこの庵が付いている事によって何となく美味しい蕎麦を連想するようなので不思議でもある。なるほど「一茶庵」、「本村庵」、「大村庵」、「長寿庵」等名店が多いのも事実である。

    江戸中期浅草の浄土宗の寺院内に「道光庵」と言う庵があった。この庵主が信州出身で蕎麦打ちが得意であったので参拝の人達に蕎麦を振舞っていた。これが大変おいしい蕎麦と評判になり信心にかこつけて蕎麦目当てに人が集まるようになる。やがて評判が評判を呼び人々が列をなしたと伝えられている。その道光庵にあやかりたいと当時の蕎麦店が屋号に庵を付けるようになったと言われる。蕎麦打ち名人にあやかってうまい蕎麦を打てるようにと言う事もあったのかもしれない。

    道光庵のあまりの繁盛ぶりと騒ぎを見かねて本院の和尚が本来の修行の妨げになるとこの庵の蕎麦を禁じてしまった。天明六年(1786年)の事とされる。この道光庵を屋号とする蕎麦屋が西日暮里にある。先の道光庵との関連は知らないが創業30年地元で評判は良いようである。

    屋号に庵の付く都内の老舗の代表格は上野の「蓮玉庵」があげられる。上野不忍池の蓮の葉の上にある玉のような蕾にちなみ蓮玉庵と店名に付けたと言われる。創業は安政六年。斉藤茂吉がこの店を短歌で読み、森鴎外の「雁」を始め坪内逍遥、樋口一葉らの作品にも登場する。店の看板と石額は久保田万太郎の筆と聞く。

    同じく庵の付く蕎麦店では栃木県足利の「一茶庵」が昭和において手打ち蕎麦の普及に貢献した事が特記される。この店は当初東京の新宿に店を開きその後大森にて店を構えた。大森の一茶庵は美味しい蕎麦店として評判を得ていたが戦火に焼かれ時を経て栃木県足利にて一茶庵を再開する。やがて美味い蕎麦を求めて東京から足を運ぶ人もあったばかりか、その蕎麦の技術を学ぼうと各地から足利詣でを行う人が多く現れた。主人片倉康雄は当時何処の店も秘伝として企業秘密であった手打ち蕎麦の技術を乞う物に惜しみなく教えた。以来そこで技術を学んだ親族や弟子は1000人を数え700軒以上の蕎麦店に技術が伝承されたと言われている。「九段一茶庵」や「鎌倉一茶庵」を始め弟子や孫弟子による全国の名店は多い。

    豊島区南長崎で「翁」を開店した高橋邦弘も片倉康雄の「日本そば大学講座」を受講した後一茶庵宇都宮で修業した弟子のひとりである。翁は評判を得て繁盛したがその後自家製粉を行う為山梨県長坂に移る。現在はその弟子が「翁長坂店」を継いでいる。高橋邦弘は広島を拠点に蕎麦指導を中心として全国で活動を続けている。

  • 江戸っ子の粋

    江戸っ子は蕎麦っ食いとして有名である。箸で手繰った蕎麦の香を楽しむ為どっぷりつゆに浸すような食べ方をしてはならない。蕎麦猪口に入った辛めのつゆを手繰って持ち上げた蕎麦の先にほんの少し付けてするすると音を立ててすすり込む。素早く食べなければ蕎麦が伸びてしまう。ぐちゃぐちゃ噛むような食べ方はもってのほか噛まずに呑み込むように喉越しを楽しむ。江戸っ子の粋な食べ方とされている。

    噺家で人間国宝だった五代目「柳家小さん」が高座で「時そば」を演じた。演じ終わって寄席の近くの蕎麦屋に入ると自分の高座を聞いていた客が大勢蕎麦を食べていた。客は小さんが店に入って来たことを見ている。小さんとしては仕方なく見栄を張り他の客の目を意識して江戸っ子よろしく蕎麦をすすった。見ていた客はさすが小さんと感心したようである。後に小さんが言うにはこの時の蕎麦は全く美味しくも何も感じられなかったとの話であった。

    ある粋な江戸っ子が死ぬ時になって一度でいいから蕎麦をたっぷりつゆに浸して食べたかったと言う笑い話もある。江戸っ子ならずとも蕎麦好きなら粋な蕎麦の食べ方をしたい。そんな事を思っていると死ぬ時に後悔する事になりそうである。

    もっとも蕎麦の香りを楽しむと言うのは蕎麦の食べ方として間違っていない。新蕎麦であればなおさらである。蕎麦屋によっては最初の一すすりか二すすりは蕎麦の香りを味わってもらうよう冷たい水に蕎麦を浸して食べてもらうような演出をする店もある。本来東京の蕎麦は醤油の多い辛いつゆで食べられる。そう言うつゆに蕎麦をたっぷり浸してしまっては蕎麦の味が分からなく成るのも事実であろう。昔の蕎麦通の人は「蕎麦がき」で日本酒を飲んで「もり蕎麦」で締めくくるような事を良くしたものである。「蕎麦がき」にて使用している「そば粉」の良し悪しが分かり蕎麦切りでその店の技量が分かると言う事であろうか。

    落語の「時そば」は客の男が屋台の蕎麦屋とやり取りをしながら調子良く蕎麦を食べる。勘定を払う段になり小銭で払うと言いだし途中で時刻を聞き勘定をごまかしてしまう。それを見ていた他の男が自分もまねて上手くやろうとして逆に多く払ってしまうと言う笑い話である。この落語には当時の風俗や蕎麦屋の事情が良く盛り込まれている。二八蕎麦として蕎麦一杯の値段が一六文。夜鷹蕎麦として営業を始めるおおよその時間と風鈴を付けて屋台を担いた事。良い蕎麦とされる蕎麦は細く長い物であり添えられる具材もこだわりがある。使われる器の良し悪しや割り箸に至るまで話の中に当時の事情が読みとれる。江戸の蕎麦が屋台により普及したのであろう事が想像され蕎麦を食べる事が江戸庶民の楽しみであった事も窺い知れる。江戸っ子の蕎麦好きはこの当時からDNAに受け継がれているように思える。

  • ザル蕎麦と
    モリ蕎麦

    ゆでた蕎麦を冷水で冷やしザルに盛って提供する。いわゆる「ザル蕎麦」は蕎麦店によってセイロ(蒸籠)蕎麦ともいわれる。頃合いに茹で上がった蕎麦を冷水でさっとしめてセイロに盛る。出来立ての蕎麦を手繰ってだしの効いたつゆに付けてするっとすする。蕎麦の醍醐味である。蕎麦についた余分な水分を切る為にセイロに盛られるのであるが蕎麦の歴史と関係があるらしい。江戸で蕎麦切りが作られるようになった当初は、蕎麦はゆで上げるのではなくセイロに盛って蒸されて提供されていたと言うのである。その習慣から蕎麦はセイロに盛られて提供されると言われている。別の話では江戸のとある蕎麦屋がゆでて冷やした蕎麦を素早く水切りが出来て見栄えも良いのでセイロに盛って提供しだしたと言う説もありこちらは今と同じ考え方である。

    ゆでた蕎麦を水で冷やしザルやセイロに乗せるのが当たり前と思っていたのは東京人であったと知らされた事がある。昭和の中頃までは良くあった話として上野界隈の蕎麦店で聞いた話である。東北方面から上京した人が上野駅で降り蕎麦店に入る。蕎麦と共に出された蕎麦つゆの入った徳利を持って蕎麦の盛られたザルの上からザットかけてしまうような事がしばしばあったらしい。この話は複数の蕎麦店で聞いた事があり、実際にその現場を見たと言う人もいる。テーブルに着いた清楚なお嬢さんがモリ蕎麦の上からつゆをかけてしまった。店の人が「またやった」と言って布巾を持ってつゆのこぼれたテーブルを拭き、新しいつゆを持ってきてあげて食べ方を教えてあげていたと言う。

    確かに全国に目をやると蕎麦を盛る容器には色々とあるようである。山形県では長方形の木のお盆の様な物に蕎麦を盛る板蕎麦。新潟県では同じような長方形のヘギと呼ばれる容器に一口サイズにまとめた蕎麦を並べて盛るヘギ蕎麦。島根県出雲地方では蕎麦を入れて重ねる事が出来る割子と言う塗の容器に盛る割子蕎麦。兵庫県の出石では蕎麦を入れた小皿を並べて食べる。どれも名物の美味しい蕎麦である。

    一昔前までは東京の蕎麦店ではメニューにザル蕎麦ともり蕎麦があるのがふつうであった。ところで「モリ蕎麦」と「ザル蕎麦」の違いは何であろう。殆どの蕎麦店では「モリ蕎麦」に海苔を散らして載せると「ザル蕎麦」となり値段もその分高くなると言うのが一般的である。こだわりのある蕎麦店ではつゆの違いで区別をしている店もある。砂糖が高価であった当時には砂糖を使ってコクを出しダシも吟味したつゆを用いるのが「ザル蕎麦」とし「モリ蕎麦」と区別をしたと言う話である。蕎麦店のなかには風味のある黒みがかった蕎麦(麺)をモリ、粒子の細かい更科粉で打った蕎麦(麺)をザルと分けて出す店もある。いずれにしてもモリよりもザルの方が少しばかり高級と言う考え方は共通のようである。

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