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  • 薮蕎麦

    東京には「藪蕎麦」を名乗る店が多い。寛政の頃(1789〜1801年)雑司ヶ谷鬼子母神の近くの藪の中にあった百姓家が参拝客相手に蕎麦を出して評判になった。それにあやかろうと藪を名乗る蕎麦店が表れたと言うような説もある。諸説はあるが広く伝えられているのは駒込の団子坂下にあった「蔦屋」と言う店が藪蕎麦の元祖であると言う話である。往時のこの店は3000坪の敷地を要し庭には滝を配し離れもあったとの事なので蕎麦店と言うよりは料亭のようなしつらえである。たいそう有名な店であったらしいが周りに竹藪が多かったことから人々は通称で藪蕎麦と呼んでいたようである。この蔦屋は明治の終わりに廃業され今は無い。

    蔦屋の淡路町にあった支店を引き継ぎ堀田七兵衛が明治13年に創業したのが今に残る「神田藪蕎麦」である。団子坂の藪蕎麦(蔦屋)にならい料亭風の構えで厳選された玄蕎麦を用いた蕎麦を提供している。現在名実共に藪の本家とされている。江戸前の穴子を使った「穴子なんばん」はこの店のオリジナルとして知られている。

    七兵衛の3男、勝三が浅草に店を出したのが「並木藪蕎麦」である。二代目堀田兵七郎は昭和の蕎麦打ち名人と言われた。この店の蕎麦つゆは東京一濃いつゆと言われている。場所柄浅草見物に来た客が寄る事も多い。ある時饂飩を頼んだ客がいて店員が饂飩は無いと言うと客がなんだ饂飩は無いのかと言うやり取りがあった。それを聞いていた主人の兵七郎がうちは蕎麦屋だと怒っていたのを思い出す。

    並木藪の二男が上野池之端に店を出したのが「池之端藪蕎麦」である。この3軒が藪蕎麦の御三家と呼ばれている。

    藪を屋号にした蕎麦店は都内及び全国にもたくさんある。日本橋の「藪伊豆総本店」は京橋にて江戸期より蕎麦店を営んでいた伊豆本と言う店を明治15年に堀田定次郎が藪と伊豆本の伊豆を取り藪伊豆として神田藪直系の分店となったのが始まりとされる。この伊豆本は大塩平八郎の乱が起こったころには既に蕎麦店として繁盛していたとの事である。このころは全国的に米の凶作が続き江戸でも蕎麦が多く食べられたとあり、蕎麦が普及したのはあるいはそのような事情があったのかもしれない。藪伊豆総本店では落語とそばの会を定期的に催している。

    上野にある「上野藪蕎麦総本店」は神田藪蕎麦からの暖簾分けで多くの蕎麦好きに支持されている。

    東京で藪を名乗る有名店では中央区浜町の「浜町藪そば」港区麻布台の「麻布台藪そば」港区高輪の「泉岳寺藪そば」墨田区吾妻橋の「吾妻橋やぶそば」中央区の「日本橋やぶ久」等がある。文京区本郷「森川町藪蔦」は共に団子坂蔦屋で奉公をしていた二人が夫婦となり暖簾分けにて店を構えたのが始まりと伝えられている。

  • 蕎麦屋の系統

    蕎麦屋の系統にはその歴史や蕎麦自体の特徴から「藪系、更科系、砂場系」等と言われる普系があるとされる。藪、更科、砂場を称して江戸蕎麦の3大普系と言われている。

    「砂場」は元々関西、大阪を発祥とした蕎麦の系統であるらしい。大阪城を築城した時の砂置場周辺に商店街が出来その商店街が通称砂場と呼ばれた。その中にあった蕎麦屋も砂場の蕎麦、砂場蕎麦と呼ばれるようになったとされている。大阪新町には砂場跡の石碑があり本邦麺類店発祥の地大阪築城史跡・新町砂場とある。碑文には太閤秀吉大阪築城により浪花の町に資材蓄積場設けられ新町には砂の類置かれ通称砂場と呼ばれた。工事関係の人が集まり賑わい食要す中、「いずみや」、「津の国屋」等麺屋として開業されたとある。寛政十年(1799年)刊とされる摂津名所図会の中で「砂場いずみや」の図として紹介されている蕎麦店の絵図がある。大きな店構えに「す奈場」と染められた暖簾の掛かる外観図のほか賑わう店内の様子や蕎麦を挽く石臼等を画いた図が残る。石臼の数、蕎麦を打つ、ゆでる、運ぶ人数、それを食べる客の数は百人をゆうに超え大した繁盛ぶりと店の規模の大きさに驚かされる。当時の名物蕎麦店であった事は窺い知れる。この砂場(浪速の新町)で繁盛した蕎麦店も残念な事に明治期に廃業となった様である。

    大阪発祥の砂場蕎麦がどのように江戸に伝わったのかは分からないが時同じくして江戸にも砂場蕎麦の記録が現れる。寛永4年(1751年)の「蕎麦全書」には江戸薬研掘りに「大和屋大阪砂場そば」天明年間(1781〜89年)刊行の「江戸見物道知辺」には「浅草黒船町砂場蕎麦」の名前が登場している。神田藪そばの初代は「蔦屋」の神田店(連雀町店)を引き継ぐ前は浅草蔵前で「中砂」と言う店を出していて砂場系だったとの話を耳にした事があるが定かな処は分からない。

    いずれにしても東京には砂場を名乗る歴史のある蕎麦店は多い。幕末に「大阪屋砂場」より暖簾分けにて高輪にて創業し明治2年に日本橋室町へ移転して現在に至る「室町砂場」は創業130年の老舗である。砂場系蕎麦店を代表する名店であり天もりの元祖とも言われている。

    初代大阪屋長吉が天保10年(1838年)に創業した歴史を持つ「巴町砂場」は一番粉の細打ち蕎麦と薄味つゆが特徴の蕎麦店でとろろ蕎麦はこの店の名物となっている。 「虎ノ門大阪屋砂場」は武家の娘であったが糀町七丁目砂場の幼女として預けられた初代のおかみが明治5年現在の地に創業。現店舗は大正12年普請の高級蕎麦店として知られている。

    江戸における砂場本家とされる「糀(麹)町砂場」は都電三ノ輪橋駅近くの商店街に所を移し「南千住砂場」として店を構えている。この「南千住砂場」が現在「砂場本家」を名乗っている。これらの店が中心となり昭和8年に砂場長栄会が結成されその後「砂場会」と改名された。砂場の普系とされる蕎麦店によるこの会には以前は180からの会員店舗数があったと聞いている。江戸蕎麦文化の創世記に大阪発祥の砂場蕎麦がかかわっていたのは事実のようである。大阪や関西は饂飩文化と思いこんでいる我々には面白い話である。ちなみに大阪、京都、関西にも美味しい蕎麦店は多い事を付け加えたい。

  • 二八蕎麦

    二八蕎麦とよく言われる。蕎麦の何を指す言葉なのか、これには2つの説があるようだ。当時蕎麦一杯の相場価格が16文で江戸っ子がしゃれて2×8で16から二八蕎麦と呼んだと言う価格説。蕎麦粉8に対して小麦粉2の配合で蕎麦を作ったのでと言う配合比率を指して呼ばれたと言う説である。価格説は物価には変動があり時代によっては16文が当てはまらないとして8対2の配合説を唱える人が多いようだ。確かにつなぎとして小麦を2割ほど入れると良い蕎麦を打つことができる。蕎麦粉10に対して小麦粉2の割合で蕎麦を打つ事もありこれを業界では外二八と言う。こちらも風味の強い良い蕎麦となる。

    どちらの説も、もっともらしい根拠もあるが否定する根拠もあり確かな処は分からない。当時の風潮等を考えると案外単純に価格から客がそう呼んだあたりが真相なのかもしれない。

    小麦粉に含まれるタンパクのグルテニンやグリヤジンはグルテンとなり網目構造を作り弾力を形成する。饂飩やラーメンを一晩寝かせたりするのはグルテンの作用でこしを出すためである。蕎麦を打つ時のつなぎには信州では地元でとれる山芋を使う事が多い。新潟では海藻の一種のフノリを使う地方がある。しこしことした触感と、のど越しの良い蕎麦として十日町の「小嶋屋」等が有名である。山間部のある地域ではヤマゴボウの葉の繊維を使う処もある。鶏卵を使ったらんぎり蕎麦もありこちらは更科系の蕎麦店で打たれる事が多い。

    蕎麦は「挽きたて打ちたて湯がきたて」と言われる。挽いたそば粉は空気中の酸素により酸化し風味が悪くなる。保管温度も低温でなければならない。したがって挽きたてに限ると言う事に成る。挽く時に熱が掛かってはならないので昔ながらの石臼で挽くのが良いとされる。蕎麦を打つ時熱を掛けず手早く空気を含まないように。使う水分も最小限にかつ粉っぽくならないように等々熟練の技と繊細な感覚が必要となる。湯がき加減も芯に熱が通る直前のタイミングにてザルですくい上げ冷水で一気に引き締める。放置しておくと水分が芯までしみこんで蕎麦が伸びてしまうので食べる方ものんびりしては居られない。蕎麦が伸びるとよく言われるがこれは蕎麦の成分が水溶性による物と考えられる。蕎麦は作り手も食べ手も江戸っ子気質のせっかちな人が良いのかもしれない。

    白米を食べる江戸では脚気の患者が多く江戸わずらいと言われた。ビタミンB1の欠乏症であるが蕎麦好きの人はなりにくかったのではないかと考えられる。そばのタンパクや栄養素は水溶性なので一部が茹で釜に流出してしまう。蕎麦作りに使う打ち粉は花粉(はなこ)とも言われるそば粉を使うがこちらも茹で湯に溶けてしまう。蕎麦店に行くと蕎麦湯が出されるが小堺化学工業(株)顧問である鎌倉女子大名誉教授の成瀬宇平はこれを是非頂くよう推奨している。蕎麦を食べ蕎麦湯を飲む事でルチンやビタミンB1を無駄なくとる事が出来栄養的にも理にかなった物となる。蕎麦店にもこだわる店があり中にはわざわざそば粉を溶いてどろっと濃くした蕎麦湯を出す店もある。

  • 蕎麦つゆ

    いくら良い蕎麦を打ってもそばつゆが悪ければ美味しく蕎麦を食べる事が出来ない。まさに麺としての蕎麦とつゆがあって蕎麦の味は形成される。生かすも殺すもつゆ次第となる。

    蕎麦つゆに用いられる「かえし」は醤油、味醂に砂糖等を加え寝かした物である。寝かせる事で醤油のかどが取れ熟成されたまろやかな味となる。一般に加熱をして保存した物を「本かえし」。醤油を加熱しないでなじませた物を「生かえし」。加熱した後に未加熱の醤油を更に加えた物を「半生かえし」等と呼んでいるようである。この「かえし」に東京では主に鰹節から取った「だし」を加えて蕎麦つゆとしている。精進料理の名店でも美味い蕎麦を出す店がある。しかしもう一つ蕎麦の味にうなずけない事があり考えてみるとやはり「だし」の味と思い当たる。精進料理では鰹節が使えないのでどうしても昆布主体に椎茸等のだしになる。本枯節を使った江戸前のだしに慣れ親しんだ舌には何か足りない気になる物である。

    地方によっては鰹節だけでなく鯖節や他の魚でだしを取るところもある。新潟県佐渡小木町にある「七右衛門」は佐渡産のそば粉で打たれた蕎麦をぶっかけ蕎麦として提供する明治末期創業の名店である。田舎風の蕎麦にアゴダシ(トビウオのだし)のつゆで評判を得ている。

    兵庫県出石は市内に40件以上の「出石蕎麦店」がある。城主が信州上田から国替時に蕎麦職人が移り住んだ事が発祥で伝来300年とされる。そばの実を丸引きにした風味のある蕎麦を出石焼の小皿に盛って提供する。だしはメジカ(宗田節)に昆布等を合わせて作られる。

    創業300年と言われる「南枝」の他、「入佐屋」、「永楽蕎麦」等が有名店である。蕎麦と魚の相性では「にしん蕎麦」がある。東京でも「にしん蕎麦」を提供する店は多いがやはり発祥は京都らしい。明治期に総本家にしん蕎麦松葉の二代目松野与三吉が発案したと言われている。「松葉」は元祖にしん蕎麦の味を守って繁盛している。

    廣島県福山の名代御蕎麦処大市では季節になると名産の牡蠣を使った「かきそば」を提供している。廣島牡蠣の風味が蕎麦と絶妙で評判が良い。「茅場町長寿庵」のように都内でも季節になると牡蠣蕎麦を提供する店は増えて来ている。

    「長寿庵」と言う屋号を持つ蕎麦店は多い。歴史を遡ると元禄のころ三河蒲郡出身の三河屋惣七が江戸京橋にて長寿庵と言う蕎麦店を開業した事につながるらしい。明治5年の大火の後に銀座の街が煉瓦造りとなった。この時に銀座竹川町に煉瓦造りの洋館として蕎麦店長寿庵も生まれ変わった。当時の蕎麦屋としては異例のたたずまいにて評判を得たらしい。ここで修業した弟子たちが次々と独立して長寿庵を名乗ったようである。現在既にこの店は無いが銀座7丁目の跡地に建つビルには「元祖長寿庵の碑」が刻まれている。現在長寿庵を名乗る都内の店としては茅場町長寿庵が老舗として有名である。「赤坂長寿庵」や「銀座長寿庵」、「両国長寿庵」等を中心に孫弟子や又その弟子によってそれぞれの長寿庵の会を作っていると聞く。

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