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  • 天麩羅の味は江戸前の海?

    天麩羅種と言えば車海老や穴子、かき揚にする芝海老や小柱が頭に浮かぶのではないだろうか。

    江戸前天麩羅の種に銀宝と言う魚がある。「銀宝を食べずして江戸前天麩羅を語るなかれ」と言う人もいる。江戸前天麩羅の3大天麩羅種の一つと言われる事もある。私はこの魚を天麩羅以外の料理で食べた事は無いが、天麩羅としては確かに美味しい。季節種として5月半ばから7月位が旬とされ、この季節を待ちわびている天麩羅好きな江戸っ子も多い。天麩羅種としては珍重されるが決して高級魚と言うわけでは無い。何処でも取れるが需要があまりなく市場に出る事が少ないと言うのが真相らしい。それどころか煮ても焼いても美味くなく天麩羅で食べる東京以外では見向きもされないと言う話もある。天麩羅職人の話によると、鮮度が問題なので殆どが生きたまま活魚として購入されるが、小骨も多く割くのが面倒で下ごしらえが大変らしい。天麩羅店の方でも通の客には喜ばれるが、一般的に知られていない部分もあり扱う店が少なくなってきているようである。鮨種の小肌も煮たり焼いたりしても美味しくないが、酢で〆る事により江戸前鮨の代表的食材となる。銀宝も鮨における小肌の様に江戸前の天麩羅職人が工夫して、天麩羅種として仕上げた一品なのかもしれない。

    江戸前の3大天麩羅と言う話が出たが、あとの2品は鱚とメゴチと言う説が一般的に言われている。どちらも天麩羅にして実に美味しい魚である。メゴチは頭を落して松葉に下ろし尻尾を残して天麩羅にする。

    キスやメゴチは江戸前の海で釣り魚として豊富に取れた物と思われる。昔は沢山釣れた魚の代表として櫨があり、ハゼの天麩羅も江戸前の代表的な天種である。沢山取れるので何処からか湧いてくると言われていたらしい。佃煮や甘露煮も良いが衣を付けた天麩羅は特に江戸っ子に好まれた。

    これらの魚の天麩羅は庶民のご馳走であったに違いない。父親が釣ってきた魚を家庭で天麩羅にして食べる事も少なくなってしまった。天麩羅船と言われ釣り船を仕立てて釣った魚を船の上で天麩羅にしてもらい釣果を味わうと言う趣向がある。釣りの中でも費用の掛かる贅沢な釣りである。芸者衆を引き連れて屋形船で天麩羅を始め料理を楽しむいわゆる船遊びは、江戸のお大臣遊びの代表であった。船遊びとなると庶民には程遠い話になるが、せめてたまには贅沢をして屋形船の上で揚げたての天麩羅を食べたい物である。キスやメゴチ、アナゴやハゼの天麩羅を食せば、江戸の昔が偲ばれると言う物であろうか。夕涼みに大川に屋形船を浮かべて天麩羅で舌鼓を打つ。完成したスカイツリーのライトアップを眺めながらとくれば格別ではないだろうか。もちろん懐具合が許されるならばの話なので、残念ながら私自身想像の話となる事をお詫びしなければならない。

  • 天麩羅のルーツは?

    天麩羅の語源は油や調理の意味があるポルトガル語のテンペロに由来すると言う説がある。別の説ではキリスト教の宗教用語クアトロ・テンプラシを語源としている。四節句にキリストの受難をしのんで節食として肉を食べずに肉の代りに魚のフライ等を食べていた。この習慣が日本に伝わりクワトロ・テンプラシから魚の揚げ物の事をテンプラと呼ぶようになったと言う。その他にも諸説がありどれを定説とするかは難しい処である。

    この衣を付けて魚等を揚げる料理に江戸時代の劇作家「山東京伝」が天麩羅と漢字をあてはめたと言う話が伝わっている。天麩羅は日本独自の揚げ物料理と思われがちだがキリスト教の宣教師と共に渡来した南蛮料理がルーツと思われる。

    始まりはフランシスコ・ザビエルの来日した安土桃山時代。面白いのは鉄砲伝来と同じくして日本に伝わってきたと言う事である。地方によってはさつま揚げのように魚のすり身を揚げた揚げカマボコを天麩羅と呼ぶ所もある。

    現在のような小麦粉を水で溶いて衣として油で揚げる天麩羅は江戸が発祥と言われている。おそらく長崎あたりで外国人が作るフリッターのような物を見て日本人が工夫したのではないかと思われる。当初は大名や階級の高い武士から大店の商家のあるじの食す高級な物であったと考えられる。

    徳川家康が天麩羅好きで鯛の天麩羅を食べすぎたのが死因と伝わる説もある。しかし、この話は現在の天麩羅にあたる食べ物だったのか等不確かな事が多い。記録では元和2年(1614)正月3日に家康が油で揚げた鯛を食べたとあるが天麩羅と言う言葉は無い。思慮深い家康が食べ過ぎて体調を崩すほど天麩羅はそれほど美味い物だったと言う事であろうか。

    天麩羅として庶民の間に広がったのは屋台の天麩羅屋の存在がある。安政年間(1772〜81)に天麩羅屋台店が商売を始めたと言われている。蕎麦や鮨と同じように江戸庶民に親しまれたのは屋台の天麩羅屋からと言う事に成るらしい。

    屋台では魚に衣を付けて揚げた物を長い串に刺して提供し客は串を持って口に運んだ。そのうち店を構える天麩羅店が登場し今のように箸を使い天つゆに付けて食す形になって来たとされる。

    豊富な魚介類が手に入り油や醤油、味醂が各地から運び込まれる江戸の町で天麩羅の食文化が花開いた事は容易に想像がつく。

    日本橋の老舗天麩羅店「天茂」は明治18年に初代の奥田茂三郎が屋台の天麩羅屋を創業しその後明治40年に店舗を構えたと言う。江戸前の丁寧な仕事と鮑の天麩羅や栗の渋皮揚げ等めずらしい天麩羅も提供する名店である。屋台がルーツであるこの店はさながら江戸前天麩羅の発展と重なる歴史を持っていると言える。

    その他にも「銀座天國」等東京の老舗天麩羅店では創業が屋台の天麩羅屋と言う歴史を持ち今に続く店も少なく無い。

  • 天麩羅はインターナショナル?

    日本料理の中で欧米人にいち早く好まれたのは天麩羅ではないだろうか。外国人にとって富士山、芸者ガール、天麩羅、すき焼きが日本の名物とされた時代もあった。

    喜劇王チャップリンは来日時に銀座「天一」や茅場町「稲ぎく」、浜町「花長」等の天麩羅店を訪れている。定かではないがエビの天麩羅を20本も食べたと言う信じがたい話も伝わっている。

    もともとチャップリンは日本贔屓であり日本に来て天麩羅を食べる事を楽しみにしていたらしい。信頼していた執事が日本人でありその勤勉で実直な人柄を敬愛していた。その為日本にも好感を持っていたようである。きっと天麩羅やすき焼きの話も聞いていたと想像される。

    余談ではあるがチャップリンが映画の中で愛用していたステッキは日本製の竹で出来た物だったそうである。

    外国人にも好まれた事からかホテル内のレストランとしても天麩羅が採用されるようになった。銀座天一は帝国ホテルに出店し外国人に喜ばれただけではなく常連の日本人宿泊客にも歓迎された。

    ホテル直営の日本料理店でも天麩羅を看板とした店がある。池波正太郎を始め多くの文人作家に愛されたヒルトップホテル(山の上ホテル)の天麩羅山の上である。

    料理長であった近藤文夫が独学で天麩羅を学び天麩羅の名店と言われるようになった。現在は独立して銀座に近藤と言う天麩羅店を開業している。大きく筒状に切ったサツマイモをじっくりと揚げて行くサツマイモの天麩羅等を名物としている。細長く切ったニンジンを少なめの天ぷら衣で揚げながらまとめて行くこの店独特のニンジンの天麩羅はニンジンの花火と呼ばれている。暖簾や箸袋に書かれた近藤の店名は池波正太郎の筆によるとの事である。京橋の人気天麩羅店「深まち」の店主深町正男もこの山の上ホテル出身である。

    ホテルオークラの日本料理「山里」の天麩羅も評判が高い。季節の野菜や吟味された魚介類の天麩羅には食通のファンも多くここで修業をして独立した天麩羅店も多い。特徴は生きた鮎を使い揚げ油の中で泳がすように揚げて行く。それにより鮎があたかも泳いでいる時のようにヒレを伸ばして揚げあがる。この揚げたての薙鮎の天麩羅を腹の方を下にして提供する。天麩羅通の客なら店で提供される鮎の天麩羅を見れば山里出身の天麩羅職人と察しが付く。山里で仕事を覚えて独立した店には西麻布の天麩羅「からさわ」、水天宮前の「つじ村」、銀座の「てんぷら真」等がある。

    過日銀座のハゲ天で天麩羅を食べていると中居さんが明日のサウジアラビヤの一行の予約がキャンセルになったと天麩羅の揚げ方に報告に来ていた。何気なく聞いていると、どうやら飛行機の都合で日本への到着が遅れる何がしで来店出来ないと言う事らしい。遠い中東からの訪日の折にも日本の食文化として天麩羅を楽しもうと言う事だろうかと勝手に想像をした。店内を見渡すと青い目の外人客が運ばれた天麩羅と共にニッコリとして写真を撮っていた。

  • 天丼は江戸っ子好み?

    江戸っ子は丼物が好きと言うのは通り相場になっている。私の場合はどちらかと言うと鰻丼を食べるなら蒲焼とご飯の方が好きである。牛丼も食べるが白米がふやける位つゆが掛かっていたりするとガッカリする。

    しかし天丼の場合は別である。天麩羅定食と天丼のどちらも捨てがたい。なぜならば良い天麩羅店は天麩羅定食と天丼の揚げ具合も変えているし天つゆも天丼用と分けるような工夫をしているからである。東京下町には天丼を売り物にしている店もあれば天丼専門店もある。

    浅草伝法院通りに店を構える大黒家は創業明治20年(1887)の老舗天麩羅店である。人気店でいつも混んでいるが店内の客の9割以上が天丼を食べている。胡麻油だけで揚げた大きなエビが売り物となっている。

    吉原大門の見返り柳のそばに天麩羅伊勢屋がある。創業が日本堤の土手があった時代だったので土手の伊勢屋と言われ110年の歴史がある。活穴子を使用し丼からはみ出した穴子が乗った天丼が名物となっている。出前もしていたころはエビの尾が丼の蓋からはみ出ている事が評判であった。

    日本橋三越近くの金子半四郎は元々湯島の仕出し店が開いた天丼専門店である。コストパホーマンスが高いとの評判もあっていつも行列が絶えない。開店からの年数は浅いが味とボリュームで人気店となっている。

    人形町の天音は色の濃い天麩羅衣をまとった天種にこちらも江戸っ子好みの濃い天つゆで知られる。胡麻油で揚げたカラッとした天麩羅は天丼との相性が良いように思う。兜町に近い場所柄もあって株式関係者がカラッと揚がった天丼を食べ株価も上がるようにと縁起を担いだようである。

    浅草のまさるは天丼の美味い店と自ら歌っている。新仲見世横の路地に店を構え天丼一本で商売をしていて大きな車海老が自慢の店である。

    銀座天国は天麩羅専門店として8丁目に立派なビルを構えている有名店である。2階3階は宴席を中心に天麩羅と割烹、日本料理を提供する。1階は庶民的なテーブル席で天丼を気軽に食べる事が出来昼夜賑わっている。明治18年銀座に屋台店として創業した歴史を持つ老舗であるが天丼めあてに訪れる客も多い。

    天丼と言う料理を説明する場合は単に天麩羅をご飯の上に乗せたと言う事では表す事はとても出来ない。天丼は天麩羅と丼タレ、ご飯が一体となった料理であり伝統の技で作られる江戸っ子好みの料理に他ならない。

    東京には天丼の発祥と言われる店がいくつかあるようであるが確かな事は分からない。創業天保8年(1837年)現存する日本最古の天麩羅屋とされる浅草の三定を天丼発祥店とする説もある。

    長野県諏訪地方には信州味噌天丼と言う天丼を出す店が多くある。特産の味噌を使った味噌ダレを天麩羅に掛けて食べる天丼である。懐かしくて新しい味として全国へ発信しようとした試みと聞く。

    昭和の頃、子供たちは天丼を食べると自分も大人の仲間入りをしたような気になった物である。天丼は庶民の味に違いはないが、ちょっぴり背伸びをしたささやかな贅沢を味わえる丼とも言えよう。

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