小堺化学工業株式会社 小堺化学工業株式会社
トップ ニュース 会社情報 アクセス 採用情報 リンク お問い合わせ

トップ > 会社情報 > 冊子
社長挨拶
会社概要
沿革
業務案内
取扱商品
コラム・著書
冊子紹介
  • 蒲焼はお重で食べる?

    本来江戸前の鰻重のご飯は天重等の他の重箱物とは違っていた。注文を受けてから鰻を割いて焼きは始めるが同時に米を砥いで火にかける。炊きあがりと同時に蒲焼が焼きあがるように頃合いを見て調理してゆく。炊きたてのご飯を蒸らさずに重箱によそってその上に蒲焼をのせて蓋をして重箱の中で蒲焼の香りと共に蒸らすのである。客が来るたびに鰻を調理するのはもとよりご飯もその都度炊く事になる。昔はこの方法にこだわった鰻重を提供する老舗も多かったが今は殆ど無くなってしまった。それでも十数年前まではこの方法で鰻重を提供する店が残っており、そんな鰻重を食べると店の心意気に感激もしたものである。

    もっとも鰻重を食べて焼き立ての暖かいままの蒲焼が、鰻の香りをまとって蒸されたご飯にのっていると、わかる客も少なくなってしまったのも事実である。そのような店では運ばれた鰻重の蓋をすぐには開けずに、鰻とご飯が重箱の中で蒸されるタイミングを持って蓋を開けるのも鰻通と言う事になる。現代の感覚では一般的に少し軟らかめのご飯よりも、しっかりと蒸らした少し硬めのご飯の方がおいしいと感じるのかもしれない。

    鰻好きを納得させるこだわった鰻重を食すのも今は昔の話となりつつある。なぜそのような方法で鰻重を提供したかと言うと、蒲焼の香りを逃さない事と暖かい鰻を提供する事に目的があったと考えられる。鰻の蒲焼をおいしく食べるにあたっては温度が大切になる。一般に鰻のたんぱくやコラーゲンは40度から70度位の温度で食すのがおいしいと言われている。確かによほど蒸しを聞かせた鰻で無い限り冷めた蒲焼は食べにくい。以前は蒲焼を入れる容器は、重箱を二重にして底の方にはお湯を入れて冷めないように提供する店もあった。

    上野池之端にある「伊豆栄」では、宮内庁御用達の鰻は冷めないようこの要領で暖かい蒲焼を運んだと聞いた事がある。ふっくらとした蒲焼はやはり焼き立てを食べるのが一番と言う事になる。

    赤坂に「重箱」と言う変わった店名で江戸時代創業の老舗鰻料亭がある。子供の頃に立派なお重で蒲焼が提供される店と聞いた記憶があり、以来鰻重の重箱に由来する店名なのかと勘違いしていた。

    久保田万太郎の「火事息子」はこの「重箱」をモデルとして書かれており、その中に店名の由来が書かれている。それによると浅草の山谷にて、初代が鯉こくや鰻飯を出す店を創業し繁盛した。近くに重箱稲荷と言う小さなお稲荷さんのお宮があり、その地の鰻屋と言う事で重箱の鰻屋と呼ばれるようになりそれが後に店名になったようである。

    久保田万太郎は重箱稲荷を世にも珍しい名前の稲荷と書いているが、そのいわれは記されていない。調べてみると、三代将軍家光が鷹狩りに行き鷹を放したがどこかへ飛び立って戻ってこない。どうした物かと困っていると近くに稲荷のお宮があり、そのお宮に弁当として持参していた重箱を供えるとその鷹が舞い戻って来て鷹狩りを続けたと言う逸話に由来するらしい。もっともこの由来のある稲荷は品川区にあるらしく、浅草山谷にあったとされる重箱稲荷はその末社なのかは定かでは無い。子供の頃に思っていた勘違いも元をたどれば食べ物を入れる重箱に行き付いたようで面白い。ちなみに久保田万太郎と当時の「重箱」の主人は浅草の小学校の同級生であったと言う話である。

  • ところ変われば鰻も変わる?

    ところ変われば鰻も変わる。

    ご存知のように鰻を割くのも関東は背開き、関西は腹開きと言うように、関西と関東では違いがある。武士の町江戸では、腹から割くのは切腹につながると縁起を担ぐ。関西大阪等は町人の町なので、腹の中に隠し事が無いよう腹から割くと言われている。

    江戸関東風の鰻は、素焼きした後に蒸して軟らかくしてから、たれをつけて焼きあげる。その為背から割いた方が串をしっかり刺せて、その後の工程が取りやすい事もあるようだ。関西では蒸さずに仕上げるので、串を打たずに焼き上げる事も多いようである。

    鰻の食べ方も全国には色々な食べ方がある。名古屋名物となっている櫃まぶしは地焼きの蒲焼を包丁でたたいて櫃によそったご飯の上に乗せ、細く切ったネギや海苔、ワサビ等の薬味をそえて、暖かいだしと共に提供される。お店の方に食べ方を尋ねると、しゃもじで鰻の乗ったお櫃を四等分し茶碗によそう。一杯目は鰻とご飯をそのまま食べ、二杯目は薬味を乗せて、三杯目はだしをかけてお茶漬け風に、最後の四杯目は今までの中の好きな食べ方で召し上げって頂ければとの説明がある。「蓬莱軒」・「いば昇」・「しら河」等が有名処となるが、名古屋名物櫃まぶしとして「備長」・「うな匠」等の店が東京にも出店している。「蓬莱軒」が櫃まぶしの商標登録を持っているとの事であるが、名古屋の名物として全国に知られている。

    京都に行けば、店名を太閤秀吉がわらじを脱いだ事に由来するとされる「う雑炊」で有名な「わらじや」がある。ぶつ切りにして中骨を除いた鰻をネギや麩と共に土鍋で煮込んで食す「う鍋」と、開いて白焼きにした鰻を野菜と溶き卵で雑炊にして味わう「う雑炊」を看板にしている。京都の鰻専門店「かねよ」は、鰻丼の上に大きな京風だし巻卵を乗せて提供される「きんし丼」を目当ての客で賑わっている。

    九州福岡や佐賀県では鰻重や鰻丼では無く「せいろ蒸し」と言って、せいろにタレを絡めたご飯を盛ってその上に蒲焼と錦糸卵を乗せて蒸したてを食べる。

    水郷柳川には「若松屋」・「柳川屋」等この「せいろ蒸し」の有名店がある。ドジョウを使った「柳川鍋」は、この柳川の地名から名づけられている事で知られている。

    「御花」は柳川藩立花家の屋敷を旅館として営んでいて、名勝として登録されている庭や大名家の宝物館も持つ事で知られている。ここでの食事は、地元有明海の珍味を食し最後に鰻の「せいろ蒸し」で締める事になり、私のような鰻好きには嬉しい限りである。以前は東京でも赤坂の「ふきぬき」と言う鰻店が、この「せいろ蒸し」を出す事で知られていた。

    九州の鹿児島は養殖ウナギで日本一の生産量を誇っている鰻どころであり、当然鰻店も多くある。繁華街天文館はその昔天文観測をする天文館があった事が現在の地名となっているが、この天文館跡地に建つ「末よし」と言う鰻店がある。この店で食事をして、関東と比べて取り合わせの違いで所変わればと感じた事がある。鰻重には肝吸いのようなお吸い物と思っていたが、この辺では味噌汁が当たり前らしいのである。川魚料理としての「鯉こく」と「蒲焼」の取り合わせは関東でもよくあるが、「鰻重」・「鰻丼」に当たり前のように普通に味噌汁が付いてくる事が不思議に思えるのは、固定観念からだったのだろうか。

  • 歴史の町には鰻店?

    全国の鰻の産地や消費地では、鰻に関してのイベントを行う所も少なく無い。中仙道の宿場町浦和では毎年鰻祭りを行っており、それを目当ての観光客もある。初夏の風物詩として毎年5月に市役所で開催され、市内の各鰻店が提供する鰻弁当を求める客で賑わう。鰻サミットも開催され、静岡県浜松市や岐阜県多治見市等、鰻ゆかりの町が参加するようである。鰻の老舗も多く、「山崎屋」「満寿家」等立派な構えの鰻店がある。埼玉県は海が無く元々沼や川が多い地域であり、川魚料理が発展したものと考えられる。

    長野県岡谷市は、寒の土用丑の日に鰻を食べようと登録し、町おこしを行っている。鰻は脂を蓄えた冬が美味しいと言う説もあり、夏のイメージのある鰻を冬にも食べようと言う考えだろうか。元々岡谷は諏訪湖や天竜川の鰻を名物として、市内には鰻店が多い。天竜川に「やな」を仕掛けて、鰻を捕まえ料理を出したのが始まりとされる「観光荘」は、いつも客で賑わっている。ちなみに店名の由来は、観光旅行等の観光ではなく以前天竜川沿いには蛍が多くこの蛍の光を見物する意味での「観光荘で」あったとの事である。

    以外に知られていないが仙台、松島も鰻店が多くあり鰻はよく食べられている。松島にある伊達家の菩提寺でもある瑞巌寺境内には、立派な鰻塚があり鰻好きとしては立ち寄って供養したい所である。

    アヤメ祭りの季節に水郷として知られる潮来や佐原を訪ねた時に鰻に関する資料展が開催されていて見学した事がある。佐原には「長谷川」「山田屋」等有名な鰻店がありアヤメ見物の客で賑わっている。

    ところで夏の土用丑の日に鰻を食べる習慣は江戸時代に平賀源内が鰻店から頼まれて考えたキャッチフレーズから始まったと言う説がある。平賀源内の旧居あとは浅草の橋場にあり今は小さな碑が立つのみであるが偶然か道沿い近くに「筑波屋」と言う鰻店がある。土用丑の日の鰻は今や夏の風物詩、一大イベントとして定着している。暑い夏を乗り切るスタミナ食として栄養豊富な鰻を食べる事は理にかなっているのかもしれない。ちなみに俳句における季語での鰻はやはり夏となっている。

    東京に限らず、歴史のある町には良い鰻屋が有る事が多い。水戸の「中川楼」・川越の「小川菊」「いちのや」・会津若松の「えびや」・三島の「桜屋」名前を上げれば切がないが、その土地の歴史文化と少なからずかかわりがあるように思えてならない。

    鰻登り、鰻の寝床、山の芋変じて鰻となる等、鰻にまつわることわざも多い。庶民にとって鰻は身近な物だったろうと想像がつく。

    昔はよく鰻と梅干は食べ合わせが悪く、同時に食べると命に係わるとされていた。食べ物の陰陽説に起因する等諸説はあるが、科学的根拠は無いようである。著名な医者がテレビに出演し、実際に鰻重と梅干を食べて見せて問題が無い事を実証して見せた事もある。そんな俗説が最近まで信じられていたのも、ほかならぬ鰻ならではと面白い。

    人形町にある鰻店「梅田」では、鰻に練り梅で食す梅田丼が人気であるが、そんな俗説を逆手に取ったオリジナル鰻丼である。昨今の暑い夏には、鰻重と香の物に奈良漬と共に小梅をそえるのも熱中症対策として良いような気もするが、さすがにそれをする店は無いようである。

  • 故郷は鰻に聞いてみる?

    近年鰻好きとしては肩身の狭いニュースが多い。シラスウナギの捕獲量が激減している事にある。ウナギを絶滅危惧種として国際取引を規制する動きもある。個体数の減少傾向が絶滅の恐れのあるレベルに達しているとの話もあり、宮崎県では親ウナギの禁漁期間を設け、産卵期の親ウナギを保護している。

    ウナギは完全養殖が出来ない為養殖にあたって稚魚を捕獲して育てる方法がとられている。ウナギを産卵させて卵から孵化させ養殖する事は非常に困難とされている。海で育ち川を遡上して産卵する鮭とは逆で、川や湖沼で育ち海にて産卵するウナギの習性が養殖を難しくしているようだ。したがって長年、毎日何十何百と鰻を割いている職人でさえ鰻の卵を見た人はいない。目利きの職人も鰻の良し悪しは分かっても、雄雌の判断などできないのである。学術的にもウナギは何処で産卵されどのように育ち日本の川を上って湖沼に生育するのかが長年の謎であり、確認解明されたのはつい数年前の事である。

    東京大学の構内においてうなぎ展があると聞いて、赤門をくぐって見学に行ったことがある。ウナギ博士として知られる、東京大学海洋研究所の塚本勝巳教授の集大成とも言える博覧会であった。塚本教授とその調査団は、今まで謎とされていた日本鰻の産卵場所を、西マリアナ海嶺南端部と特定する事に成功した。

    その方法は太平洋を鰻の稚魚を追い求め、孵化したての幼生(プレレプトケファレス)までさかのぼり、産卵したての受精卵までたどり着く気の遠くなるような作業であった。海で生まれたウナギはシラスウナギと呼ばれる稚魚に成って川を上り、成長した後川を下って海で産卵する事はよく知られている。しかし産卵やシラスウナギに成長する海での生態は、長い間謎とされていた。産卵後孵化したウナギの幼生はレプトケファルスと呼ばれ、これが海で成長し変態してシラスウナギになる。レプトケファルスは、水中に漂う姿が風にたなびくヤナギ葉のようなので「ヤナギ葉幼生」とも言われる。さらにその後これも大きな謎であった孵化したての稚魚の餌も突き止める事に成功し、日本人の長年の夢である鰻の完全養殖に向けた明るい話題も提供している。マルちゃんブランドで知られる東洋水産鰍フ創業者である森和夫氏は鰻類の研究を行う「いらご研究所」を設立。後継者たちが氏の思いを受け継ぎ鰻の完全養殖等鰻の研究に多大な貢献をしている。このような研究により近い将来卵から育てる鰻の完全養殖が実現される事を心待ちにしている鰻好きは多い。都内に鰻屋を営む店が数件しかなくなり、「鰻重はここ数年食べて無い」江戸っ子がそんな悪夢のような話をする日が来ない事を祈るばかりである。

    愛知県のウナギ養殖会社が2013年に、フイリッピン産シラスを池入しアンギラ・ビカーラ種の養殖販売に目途を付けた。現在中国ではヨーロッパ産のアンギラ種、アメリカ産のロストダラー種、東南アジア産のビカーラ種とマルモダラー種が出荷されている。日本産ジャポニカ種以外の鰻も既に私たちの口に入っているのかも知れない。

    シラスウナギの捕獲量が減って来たのは、資源の枯渇に加え海域の海水温変化も起因しているのではないか。産卵場所が海水温の変化や気象条件等により移動していれば、黒潮に乗って移動する鰻の稚魚が日本にたどりつかなくなるのではないか。かつて北海道で沢山漁獲されたニシンのように…。あれこれ考えながら食べる鰻重はいつもより箸の運びが遅くなる。

プライバシーポリシー サイトマップ お問い合わせ
Copyright (C) 2008 KOSAKAI CHEMICAL INDUSTRY. All rights reserved.