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  • タレは鰻店の宝物?

    天丼・かつ丼ときても鰻は鰻丼では無く鰻重のイメージが強いのは、蒲焼の長さが丸い丼よりも長方形のお重に合うからだろうか。鰻好きの中には、鰻もお重では無く鰻丼が良いと器にこだわる人もいる。落語家の柳家小さんは、湯島にある鰻店「小福」に自分専用の丼を預けていたと言う話を聞いた事がある。

    鰻丼の起源については、江戸時代「宮川政運」著の物事の起源を表した書に今の人形町あたりの芝居小屋の主人「大久保今助」が考案したと言う説がある。蒲焼とご飯にタレがしみ込んだ味が、芝居町を中心に人気となり近隣の大野屋が元祖鰻飯として売り出したとの記述もある。鰻店によっては値段の安い方は丼で提供し高価になると鰻重になる店もある。実際に鰻の値段はその大きさの違いによる物である。

    今のように蒲焼にする鰻を割いて開く技法は、江戸中期に上方から江戸に伝わったとされている。現在はどの鰻店でも鰻を割く包丁は専用のサキ包丁が用いられている。その鰻を割く為の包丁は地方により独特の形に工夫され、江戸サキ、大阪サキ、京サキ、名古屋サキ等とそれぞれ異なるようである。

    歴史ある鰻店で最も大切にされているのは、その店に代々伝わるタレである。秘伝のタレと言う事になるのであるが意外に配合自体はシンプルな物が多い。創業200年を超す都内屈指の老舗「神田川本店」の特徴である辛口のタレは、醤油と味醂のみを配合しそれ以外調味料や糖類は一切使わないそうである。「尾花」も醤油はまろやかな香りが特徴の小豆島のマルキン醤油とこだわるが配合は、醤油と味醂のみとの事であり他の老舗については「野田岩」等もしかりである。

    企業秘密で実は隠し味があるのではと邪念も抱くが、実は長年蒲焼を焼いて来たが故のうま味成分が蓄積される事に秘密があるらしい。何度もタレ付けされて焼かれた蒲焼は、メイラード反応を起こしてコクと深みを増し同時に鰻からのうま味成分が加わる。それらを含んだタレは独特の風味を持つ事になり、歴史によって作られるその店独特のタレとなる。

    老舗のタレは創業以来絶やさず継ぎ足される事により、何万匹か数えきれない鰻のうま味を備えている事になる。関東大震災の時にタレ壺を抱えて火の中を逃げた。戦時中に空襲を受け、戦火の中から命がけでタレだけを運び出して守った等の話が残る老舗は多い。

    そんなタレをつけて焼かれる蒲焼は、香りを出す為にも炭火が一番と言われている。使われる炭は最上級の紀州備長炭を用いて火を起こし、炭から10数p離して焼くのが良いとされている。

    多くの鰻店は素材としての鰻へのこだわりを持っている。もちろん入手しにくい高価な天然物もあるが、養殖でも育て方にこだわったブランド鰻がある。「うなぎ坂東太郎」は忠平鰍ェ手掛ける鰻のブランドで、浅草駒形の「前川」始め各鰻店では他の養殖鰻とは区別された蒲焼とされている。

    焼津の葛汾で養殖される「大井川・供水うなぎ」も幻の鰻とされ評判を得ている。これらは餌にこだわり、環境を整えストレスを掛けないよう時間を掛けて育てる事により、天然に近い養殖鰻を提供している。 鰻の蒲焼と言う料理は100年前から変わらず、これからの100年もほとんど変わらないだろと言う人がいる。しかしそれに係る人々のたゆまない創意工夫は、江戸の昔から今日に至り今後100年もきっと続けられていくと確信している。

  • 鰻店は何と言っても江戸東京?

    江戸前と言う言葉はそもそも鰻を指していたそうである。嘉永5年(1856年)に江戸前大蒲焼番付表と言う物が出されており江戸に有った221軒もの鰻店が記載されている。番付表を見ると知っている店の名前を目にする事も出来る。世話役として山谷重箱、番付の上位には浅草「前川」明神下「神田川」等現在も営業を続け繁盛している鰻店が登載されているからである。

    推測ではあるが江戸には400軒を超える鰻店があったと考えられており、それに蒲焼売りとされる屋台の露天商等を加えると800軒位の鰻屋があったのではないかとの説もある。人口比からするとその数は極めて多く、しかもその殆どが鰻料理以外は扱わない専門店であった事も驚きである。その数字を少々割り引いても如何に江戸っ子が鰻好きであったかが窺い知れる。

    当時の江戸は隅田川に代表される大きな川だけでなく掘割や水路が張り巡らされ沼や池も多く点在し鰻にとっては格好のすみかとなっていた。浅草蔵前周辺は幕府の米蔵が並んで建ち船を利用して運び込まれる米俵から零れ落ちる米を餌にした肥えた鰻が捕れたと言われている。

    江戸の商業の中心地とされた日本橋界隈や職人が多かった神田近辺、随一の繁華街であった浅草には今でも有名な鰻店が多くある事で知られている。現在の日本橋界隈の有名店は小網町の「喜代川」室町の「いずもや」「伊勢定」「大江戸」に加え「高嶋屋」「室町宮川」「小伝馬町宮川」。元全日本代表でサッカー解説の松木安太郎の実家として知られる「近三」もその一件である。神田では神田明神下「神田川」が粋な黒塀の風格のある店構えで迎えてくれる。北辰一刀流千葉周作道場があったとされるお玉が池跡に店のある「ふな亀」。神田駅近くの「菊川」外神田の「久保田」湯島天神下「小福」等がある。浅草も創業100年を超えるような老舗がそろっている。駒形の「前川」雷門の「やっこ」新仲見世「つるや」その他にも「色川」「小柳」「初小川」「川松」等名店が味を競っている。

    また向島を始め神楽坂、赤坂等、花柳界のある地には必ず鰻の老舗があるのも面白い。「向島宮川」神楽坂の「志満金」赤坂の「ふきぬき」等が評判の店でもある。江戸川沿い帝釈天、寅さんで知られる葛飾柴又にも川魚料理、鰻の老舗は多い。「川千家」「川甚」等は創業100年を超える老舗として評判の店である。映画「男はつらいよ」の第一作でクライマックスとなる寅次郎の妹さくらと博の結婚披露宴シーンは川甚で撮影された事は知られている。山の手では江戸川橋の「石ばし」「はし本」等の老舗が繁盛している。

    麻布にある「野田岩」は江戸期創業の老舗である。当主「金本謙次郎」は長年続けている仕事も単なる作業にしてはならないと常に追求心を持ち職人技を貫いている。平成19年に鰻職人として初の現代の名工に選ばれている。開いて串に刺した鰻の皮と身の間の余分な脂を素焼きの段階で焼いて落す。表面を団扇であおいで冷ましながら内を焼く要領である。たれを付けて焼く作業は4回繰り返し炭を置く位置、団扇をあおぐ速度等を微妙に調節しながら焼き色を出す事に全力を注ぐ。表面をこがさずにぎりぎりの処で黄金色に焼き上げる、まさに職人技である。ところで野田岩本店に掛かる看板には「狐うなぎ」とある。「狐うなぎ」とは、かつて野田岩で提供されていた利根川上流で捕れる狐のように口が細い事からそう呼ばれた天然鰻との話である。

  • 鰻は栄養の宝庫?

    鹿児島の開聞岳を望む池田湖に生息する大ウナギを見に行ったことがある。最大で体長約2m体重20kgにもなりその太さと大きさには驚くがウナギ目ウナギ科で通常目にするウナギとは同属の別種との事である。南西諸島あたりでは捕獲して食べられる事もあるようだが味は今一つと言われている。水槽にいる大ウナギを見て一匹で何人前の鰻重が出来るのかと考えるのは不謹慎と言う物であろうか。

    浜松の名物土産に「夜のお菓子」のキャッチフレーズで知られる「うなぎパイ」がある。蒲焼をイメージさせる鰻エキスが入った細長いパイである。夜のお菓子とは意味深であるが製造元に言わせると夕食後の一家団らんに食べてほしいそんな意味だと言う。しかし精が付くウナギのイメージから勘違いして買って帰られる客も多いとの弁であり案外狙いはそのあたりかもしれない。

    日本橋の老舗楊枝専門店「さるや」ではウナギに似せた楊枝を販売している。どちらも細長い楊枝とウナギをイメージさせた江戸っ子のシャレと思われるが、鰻好きとしては是非小道具として持ち歩きたい物である。

    鰻の生産量も減り価格も高騰して来ている昨今は鰻を余すところなく食べようと言う考えも再燃して来ている。以前から鰻を割く時に出る頭の部分を串に刺して焼いた「かぶと焼き」やヒレなどの端切れの部分を串に刺した「倶利伽羅焼き」等は庶民の酒の肴とされてきた。ちなみに「倶利伽羅焼き」は串に刺された鰻の端切れが不動明王の持つ「倶利伽羅剣」に例えられての事である。肝臓や胃、浮き袋等を丁寧に分けて串に刺され串焼きを提供する鰻店もある。中野にある「川二郎」では鰻を割く時に落される頭の部分を割いて中骨を取り除き身の部分を串刺しにして提供している。人形町の「心天」は鰻の皮を串巻とし、背びれをヒレ串、レバー、鰻のつくね等の串焼きを提供している。そうした店は骨も素揚げにしておつまみとしてサービスしたりしている。

    そもそも栄養豊富な鰻は必須アミノ酸のリジン、メチオニン、スレオニン、トリプトファンの他にDHA、EPA等の必須脂肪酸を多く含んでいる。加えてビタミンA、ビタミンEにコラーゲン、骨まで食べればカルシウムの補強ともなる。余すところなく食べる事は栄養学的にも大切なように思える。

    ところで鰻を刺身のように生で食べる事が無いのは実は鰻の血液には有毒成分が含まれているからである。その事を知らない人は案外多く話を聞いて食べて大丈夫かと驚く人もいる。有毒成分「イクチオヘモトキシン」は60度で5分ほど加熱すれば毒性を失うので通常の鰻料理では全く心配は無いわけである。

    価格高騰により若者の鰻離れが気になる処であり鰻は年配者の好む料理と言うイメージがあるかと思うが実はそうでも無いらしい。夏の土曜日の昼に神田明神近くへ来たので鰻店「神田川」へ今から行きたいと電話をすると椅子席の相部屋があいておりそこへ通された。私たちの他に2組がいたがいずれも若いカップルで鰻店での食事を楽しんでいる。二人でネット検索し次のデートは鰻店でと言う事で訪れたようである。若者のデートに利用されている場を見て鰻が若い人たちにも支持されている事を知り少し嬉しく思えた。

  • 天然鰻は腕で仕上げる?

    関東では下りの青に代表される天然鰻はいくら養殖の技術が向上したと言っても及ぶ物ではない。しかし天然の上物を蒲焼に仕上げるには大変な技術が必要となる。鰻店は数多くあるがその技術を持つ店と職人は多くは無い。

    1メートル近くもある天然鰻を名物大串として提供するのが南千住の「尾花」である。以前は天然鰻を売りにして天然鰻の大きな看板を掲げて日によっては提供する鰻の7割方が天然であった事もあったと聞く。天然鰻と染め抜かれた暖簾をかき分けて店に入ると、店内には釣り針ご用心の張り紙があり、土産に蒲焼を持ち帰る紙袋にも天然鰻の印刷がされていた。残念ながら今は天然の文字が無くなってしまい、釣り針に注意する事も無くなってしまったようである。この店の蒲焼を別の鰻店の職人は、串に刺した鰻をあの口に入れるととろけるように軟らかく焼き上げる技術に感心をしていた。鰻を焼いた経験のある人であれば、そう思っても不思議ではないと思われる。

    名物尾花の大串はどのように作られるのであろうか。目打をした鰻を背開きにし、キモ、中骨、向こう骨、背ビレ、腹ビレを取り除く。さらに針を打って固定し削るように、小骨を除き頭と尾を落したのち等分に切る。左から2〜3cmの間隔で一か所に2本の串を打つが、串は平行よりやや先すぼみの八の字とする。この時の串は肉が盛り上がるように、身を縮めて厚みを増した鰻の中央に打つ事が大切である。素焼きは強火の炭で、皮から焼き手返しを何遍も繰り返し火を良く通す。頃合いとしては皮に米粒大の細かな焼き目が付いて来るまで焼き上げる。焼きあがった鰻はさっと水洗いをしてから、大きさにもよるが40分程蒸しあげる。蒸しあがった時の鰻の身は見た目が赤みをおびている。蒸しあがったらタレに浸し今度は身の方から弱火で焼く。タレが固まらないように小まめに返し、4回たれを付けて5分程で焼き上げる。焼く際は素焼き蒲焼とも手返し百遍と言われるように、ひんぱんにひっくり返しむらなく焼き上げる事が肝心である。口にした瞬間に崩れるほど柔らかく仕上げられた鰻は、下町特有の辛口のタレのかもし出す香りと相まって絶妙の味となる。

    天然鰻の産地には以前関東では利根川下流のほか印旛沼、手賀沼、霞ヶ浦等があったが水質汚染などもあり激減しているようである。夏が旬のイメージがある鰻だが、天然物は夏場に餌を食べて栄養を蓄えるので秋から冬にかけて捕れる物が最も美味しいと言われている。全国的には九州柳川、四国四万十川、北陸の三方五胡、山陰の宍道湖等が知られている。

    鰻の蒲焼は俗に「くし打ち3年、裂き5年、焼きは一生」と言われている。鰻職人にとって焼きは、一生の修業と言う事になりその腕の見せ処となる。江戸末期創業の名店「竹葉亭」にはかつて焼政と呼ばれた名職人浅野政吉がいて、「竹葉亭」の名を高めたと聞いた事がある。木挽町の本店は、大正期に建てられた茶室と座敷を持ち風情あるたたずまいで客を迎えている。江戸前の鰻店の系統では大和田を名乗る店も多い。本家とされるのは尾張町大和田であるが、そこで修業し暖簾分けされて店を出しまたその暖簾分けされた店で修業し大和田を名乗る。大和田を名乗る店は新橋の「大和田」柏の「大和田」台東区竜泉の「大和田」の他多くある。

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