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  • 池波正太郎の時代小説鬼平犯科帳には当時の江戸の食べ物が紹介されているがその中で物語中の重要な舞台として「五鉄」と言う「軍鶏鍋屋」がある。TVシリーズの鬼平犯科帳では中村吉右衛門演じる主人公の長谷川平蔵がその密偵たちと「軍鶏鍋」を囲んでのシーンが度々登場する。当時から「鶏肉」はご馳走として食べられていたらしく事実江戸期より創業の「鳥鍋屋」も都内には残っている。この「五鉄」のモデルと言われている店が都内に2件あるらしい。作者に贔屓にされていたと言う事からも参考にされたであろう事と想像される。

    一件は両国橋近くにある「坊主軍鶏」で主人が仲裁に入り喧嘩を納めるために頭を坊主にしたと言う事から「坊主軍鶏」が店名に成ったと言われている。もう一軒も墨田区にある「かどや」でこちらは水炊きや味噌鍋等で鶏肉を味わえる。

    昭和40年代ごろまでは東京下町には各町内に「鶏肉専門店」がありご馳走としての水炊きや安上がりで栄養のある鶏モツの煮込み等良く家庭の食卓でも食べられたものである。鶏モツの中には「キンカン」と呼ばれ果物のキンカンに似た卵として産み落とされる前の卵黄にあたる物が含まれていたのも思い出される。

    最近はB-1グランプリなる大会があり山梨県甲府のご当地B級グルメとして「鶏モツの煮込み」が1位に成ったのは記憶に新しい。若いB級グルメファンには斬新に感じられたようでもあるが昔は似た様なものが東京下町等でも良く食べられていたような気がする。山に囲まれた盆地である甲府では鮮度の良い魚が手に入りにくく鶏モツ煮が食文化として残った物と思われる。主に蕎麦店のメニューとして食べられていたと言う。

    東京で有名な「軍鶏鍋屋」としては神田連雀町の「ぼたん」、上野池之端の「鳥栄」がありいずれも風情のある建物とそれぞれの特色ある軍鶏鍋で客を迎えてくれる。小堺化学工業竃{社のある人形町にも歴史のある鶏料理店として「玉ひで」がある。こちらも「軍鶏鍋店」であるが昼の親子丼を目当ての客が行列を作る光景は人形町名物となっている。ちなみに最初に「親子丼」を考案したのもこの店とされている。寒い冬に目の前で煮込まれる「軍鶏鍋」を思い浮かべれば江戸っ子ならずとも思わずよだれが出てくると言う物である。

    少し余談になるが「鶏の水炊き」は九州博多の名物であり発祥の店は「水月」とされる。「水月」では水炊きのスープは濁らさないよううまみを出して透明に仕上げる。同じく有名店の「新三浦」では肉や骨から出るコラーゲン質で白濁したスープを使う。「水月」のように透明なスープの水炊きを「みずたき」と呼び「新三浦」のような白濁したスープを使う水炊きを「みずだき」と濁って発音すると言うのも博多ならではの事で面白い。

  • 泥鰌 どじょう(どぜう)

    「泥鰌」は江戸庶民には好まれた食材である。田圃の多かった当時には手に入りやすい食材でありかつ生かして飼っておく事が出来るため保存も出来ると言うことであろうか。

    暑い夏に生命力の強い「泥鰌鍋」を食べて夏を乗り切る。江戸時代から暑い時期には熱い「泥鰌鍋」を食べて暑気払いをしていた。俳句の季語でも「泥鰌鍋」は夏の季語となっている。もちろん冬の寒い日に食べる「泥鰌鍋」もおつなものである。特に「泥鰌鍋」に付き物の輪切りにしたネギは冬には甘みが増して美味となる。いずれにしても懐具合をあまり気にせずにタンパク質が取れるし丸ごと鍋にすればカルシウムもたっぷりである。以前は町の魚屋でも生きた泥鰌を売っていた物であるが今は泥鰌と言えばペットショップで売られているらしい。残念ながら家庭で泥鰌を料理する事は殆ど無くなってしまったようである。

    「泥鰌料理専門店」と言えば浅草の「駒形どぜう」が有名である。店の造りが江戸情緒をかもし出していると言う意味ではこの店の右に出る食事処は少ないと思う。「泥鰌」では4文字となり縁起を担いで「どぜう」と言う字を当てて店名にしたと言う事で本来の店名は越後屋と言うらしい。「泥鰌料理」に「どぜう」の文字を充てる店は多いがこの店が元祖であるようだ。泥鰌の姿をそのまま使う「丸鍋」の他、「柳川鍋」や独特の味噌を使った「どぜう汁」も評判が良い。

    同じく浅草には「飯田屋」と言う「泥鰌料理専門店」がありこちらも明治創業の老舗である。映画「男はつらいよ」のロケに使われた事でも知られている。叔父の寅次郎が甥の満男に初めて酒を教える設定に使われた。

    江東区高ばしの「伊せ喜」には泥鰌を割いて骨を取ったいわゆる「ヌキ鍋」にしてすき焼き風に溶き卵を付けて食べる独特の食べ方の「どぜう鍋」がある。こちらも江戸情緒の残る店内でその情緒に浸りながら料理を楽しむ事が出来る。

    下町墨田区にも「ひら井」「桔梗家」と言う有名店があり繁盛している。泥鰌料理のひとつ「柳川鍋」は九州福岡の水郷、柳川の地名から料理名になったとされる。こちらはササガキゴボウとの相性が良い。骨も無くゴボウと山椒で泥臭さを消して食べる料理なので誰にでも食べやすい。その他老舗の泥鰌料理店では「泥鰌の蒲焼」や「唐揚げ」等の泥鰌料理を提供している。

    庶民の味であった泥鰌も昔懐かしい味となりつつあるが江戸下町の食文化としても残して行きたいものである。庶民派を売り物に我が国の首相が自らを泥鰌と称したのも泥鰌の響きが持つ素朴で親しみのあるイメージからであろうか。

  • 料 亭

    江戸も文化文政の頃になるとグルメブームも到来し料理茶屋から料亭と言われる大きな料理店が登場する。日本橋の料亭「百川」で巻起る勘違いによる騒動を面白おかしく話にした百川と言う落語がある。オールドフアンなら昭和の名人三遊亭圓生の名口調を思い出す。

    この百川は実在した料亭でペリー来航時に幕府の命により八百善と共に料理を提供したと史実に残っている。圓生は落語「百川」の枕で日本橋浮世小路、鰹節で有名な「にんべん」のあたりに有った料亭と語っている。

    「百川」と共にペリーに料理を提供したもう一軒の料亭が「八百善」である。数ある江戸の料亭中で最も有名な一件と言える。八百善4代目の残した料理本「江戸流行料理通」は八百善料理通と言われ現代にも通じる料理教本であると同時に江戸の料理と食文化を今に伝える貴重な書物である。

    この「八百善」には数々の逸話が残っている。ある粋人が「八百善」に上がり色々な物を食べ飽きたので、茶漬けを所望したところ散々待たされた挙句代金が1両2分と言われる。確かに美味しい茶漬けではあったがそれにしてもと尋ねると。茶漬けに添えた香の物は当時春には珍しい瓜と茄子。茶は宇治の玉露に米は越後の一粒選り。時間が掛かったのは茶漬けに使う水を玉川上水の取水口まで早飛脚に汲みに行かせたとの事であった。浅草の山谷にある八百善から玉川上流までと言うのは少々オーバーな様にも思えるが、高級を売り物にし、使用する水や食材にもとことんこだわった「八百善」ならではの逸話である。

    この江戸を代表する料亭を訪れた歴史上の人物は多い。江戸期には将軍徳川家斉も訪れた記録が残っている。4代目栗山善四郎とは深い交友があり常連とされている酒井抱一や太田蜀山人、谷文晁。葛飾北斎、渡辺崋山、幕末には天璋院篤姫、勝海舟。明治の頃には木戸孝允、山縣有朋。文壇では森鴎外、芥川龍之介、菊池寛。永井荷風はここで結婚式を挙げた記録が残っている。

    時代を経て八百善も関東大震災で山谷の建物全てが焼失しその後も戦災による被害を受ける。戦後はいくつかの地を経て銀座の共同ビルの地下に店を構え「割烹家八百善」として変わらぬ江戸の味を伝えていた。真薯や魚素麺、白瓜の雷干し、デザートの白玉等「八百善」の名物料理が提供され予約もせずに訪れても嫌な顔をせず老舗としての接客対応をしてくれた物である。その後新設された両国の江戸東京博物館に出店し銀座店は閉店された。博物館を訪れる客にリーズナブルな江戸料理を提供していたがこちらも閉店し現在は「八百善」の店舗は無い。

    現代において見栄えの良い京風料理が一般受けをする。反面見えない処に手間暇をかける江戸料理は採算面等理解してもらう事が難しいのかもしれない。東京でも日本料理店は京風料理全盛で江戸伝統の料理を提供する料理店は少なくなり残念に思うのは江戸っ子の僻みであろうか。江戸料理の旗手であった店は無くなっても「八百善」の江戸料理は現在10代目栗山善四郎に伝わりさらに11代目に伝承されていると聞く。

  • すき焼き

    牛肉食べぬは開けぬ奴といわれ文明開化の代名詞のようにもてはやされた食べ物が「すき焼き」である。肉食文化が無かった日本人に合った食べ物としてもてはやされた。

    高村光太郎は「米久の晩餐」として鍋を囲み、「すき焼き」を食べる様子を詩に残している。この「米久」は浅草に今もある老舗すき焼き店の事である。近江の国で米屋を営んでいた竹中久次が近江から牛を引いて上京し牛鍋屋を開業したのが始まりとされている。

    関西では「鉄鍋」で牛肉を砂糖と醤油で味付けし焼くように食すのが一般的である。関東では牛肉を鉄鍋でネギ等の野菜と豆腐や白瀧と共に割り下を使いぐつぐつと煮込んでいわゆる「牛鍋」の状態で食べたようである。今は関西、関東のこだわりはあるにしても双方の良い部分を取ってあまり東西の区別は無いように思われる。

    初期のころは食べなれない牛肉をなじみのある味噌味の鍋で食べさせる店も多かったようである。当時外国との窓口であった横浜には牛肉をぶつ切りにしてみそ味の鍋にして食べる「太田なわのれん」と言う店が今も営業している。

    明治のころは店名に「今」と言う文字を冠した牛鍋店が多くあった。これは東京で初めての、と畜場が開設された今里に由来すると言う説がある。慶応3年(1867)に横浜の中川屋嘉兵衛と言う人が現在の芝白金のあたり今里の地に、と畜場を開設したと言う史実がある。今里直送の良質な肉を提供する店として今と言う字を冠したと言う話である。後にそう言う店の中から暖簾分けされた店も「今」の字を使用した事であろうと想像できる。新橋の「今朝」、「浅草今半」「人形町今半」等が代表であろうか。

    俳優であり歌手でもある加山雄三は年齢を重ねても若く元気である事にいつも感心するがそのスタミナ源は肉好きゆえであるらしい。代表作として若大将シリーズの映画があるが主人公の実家が老舗すき焼店として登場する。頼まれたら嫌とは言えない正義感で行動的な若大将のイメージにはすき焼店の息子のイメージが合うのかもしれない。

    都内には今も老舗すき焼店は多い。明治創業の老舗としては東大生に愛された湯島の「江知勝」、江戸時代に犬のチンを扱う商売をしていた事を屋号にした浅草の「ちんや」、牛佃煮が評判の日本橋の「伊勢重」等がある。小堺化学工業竃{社のある人形町では牛肉販売でも有名な「日山」のすき焼きが評判で水天宮参りや明治座での観劇帰りの客でにぎわっている。

    坂本九の歌う上を向いて歩こうがアメリカでスキヤキソングと言われ全米ヒットチャートで1位になる大ヒットとなった事を記憶されている方も多いと思う。アメリカで牛肉を使った日本料理としてのすき焼きのイメージが良かった事で相乗効果があったのかもしれない。もっとも作詞を手掛けた詠六輔はアメリカでのヒットには複雑なものがあったように聞いている。歌のヒットと共に元の歌詞を離れ英語の歌詞がいくつも作られて行く。中には芸者ガールと共に食べたすき焼きが忘れられないと言うような事に成れば当然かもしれない。

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