2022.02~04 安藤優一郎氏の江戸歳時記が更新されました。

2022.04 江戸の果物④【豪商紀伊国屋文左衛門は蜜柑を扱った商人ではなかった】

紀州から海上輸送された蜜柑は、まず日本橋四日市町の広小路に水揚げされます。そこで開かれていた蜜柑市を通じて果物を扱う商人の手に渡り、食卓に届く流れでした。紀州蜜柑は他の蜜柑に比べると皮が厚く、美味という評判を得たことも相まって、江戸でトップシェアの座を獲得します。

紀州蜜柑といえば、豪商紀伊国屋文左衛門の伝説が有名です。嵐の中を船で紀州蜜柑を大量に運び、高値で売り捌いて大儲けした話ですが、そのエピソードを証明する確かな史料は残されていません。

実際は蜜柑と関係なく材木商人として財をなした人物でしたが、紀伊国屋という屋号に注目して文左衛門と紀州蜜柑を結び付けた小説が創作されたことで、その伝説が生まれたのが真実のようです。

明治に入ると中国から入ってきた温州蜜柑の栽培が広まったことで、江戸改め東京での紀州蜜柑のシェアは低下します。やがて、トップシェアの座は温州蜜柑に奪われることになります。

2022.03 江戸の果物③【江戸に出荷された紀州蜜柑】

今回は江戸の果物の代表格ともいうべき蜜柑をみていきましょう。温暖な地域の特産物であることは今も同じですが、江戸っ子にとり最も身近な蜜柑の産地は紀州でした。

農学者として知られた大蔵永常が著した『広益国産考』によれば、紀州から三都に出荷された蜜柑は年間で150万籠にも達したといいます。1籠に何個入っていたかは分かりませんが、ゆうに1000万個は越えたでしょう。

紀州蜜柑は、戦国時代にあたる天正年間(1573~93)に肥後国の八代から紀伊国有田郡に蜜柑が移植されたのがはじまりです。土地柄にも合って美味な蜜柑が出来たことから、紀州全体に生産が広まります。

江戸初期、紀州の国主は浅野家でしたが、大坂夏の陣の後に広島へ転封されると、徳川家康の10男頼宣が新国主となります。紀州徳川家の誕生です。初代紀州藩主となった頼宣は有田産の蜜柑を気に入り、その増産を奨励したため、紀州蜜柑の生産は飛躍的に高まります。

江戸をはじめ三都に大量に出荷されたことで、蜜柑の価格は自然と安くなりました。こうして、上流階級の贈答品だった高級果物の蜜柑は大衆の果物に変身するのです。

2022.02 江戸の果物②【出荷制限が掛けられた果物】

江戸では初物がたいへんな人気を博しましたが、それは果物についてもあてはまります。よって、生産者の農民側には早めに出荷する傾向がみられましたが、早く成長させるためには、高価な肥料を投入するなどの投資も厭いませんでした。

となれば、その分価格に反映されます。いきおい値段は高くなりますが、それでも争うように買い求められたのが実態でした。
しかし、価格の高騰を嫌う町奉行所は、早くも貞享3年(1686)に出荷制限の法令を発令します。ビワは5月、りんごは7月、梨は8月より出荷を許可するなどと定めましたが、実際は守られませんでした。その証拠に、同じ法令が繰り返し出されています。

なお、『守貞謾稿』という江戸の生活風俗書によりますと、もともと果物は菓子と呼ばれましたが、江戸時代に入って呼び名が変わったそうです。京都・大坂では果物、江戸では蒸菓子などとの比較で水菓子と呼ばれるようになりました。