社長の呟き 2017年1月~12月号(日本橋倶楽部会報 ”はし休め”より)

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報1月号(第449号

[一月号]

「50回目」

小欄は2012年12月号の創刊400号に平林総支配人から記念すべき一文をとのことで始まった。404号より「はし休め」に改め、この新年号でちょうど50回となる。これを機会に過去の駄文を読み返してみたが、 “箸休め”としてはお口直しどころか賞味期限切れ、“橋休め”としても日本橋川の静かな流れを乱して汗顔の至りだ。ただ毎号四百余字を“痛“読頂いた奇特な方々の“辛”抱強さには感謝したい。ちなみに第400号の“編集後記”にこう記している。

「『創刊400号に想う』 記念すべき創刊号は昭和54年9月発行。当時の三輪純巨・会報委員長は創立90周年を翌年に控え、1200名を擁する会員に細田修三理事長の訃報を伝えている。追悼文を寄せた方々も、今はすでに鬼籍に入る。単純に計算しても三十数年の号を重ねる伝統とその記念すべき標に佇む機会を得たことを心より誇りに思う。」

小欄も筆ならぬ“はし”を置くまで“奇跡に入る”。    小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報2月号(第450号)

[二月号]

「トランプ大統領就任」

先月20日、第45代アメリカ合衆国大統領に就任したミスター「Trump」。遊具の「トランプ」は英語では「Cards」、「Trmp」は「切り札」を意味する。「Trmp(ズカズカと乱暴に歩く)」のスタイルから早く「」を元々の「」に戻し、”Make America Great Again”の公約通り、「切り札」の山を築けるのか注目したい。小欄はさらに「(愛)」と「(エッチ)」を加えた「Trump(トライアンフ 勝利)(仏読みは“トリンプ”)」の文字に惹かれると言ったら、ご婦人方から顰蹙を買いそうだ。

さて、例年正月号は理事長、2月と12月は副理事長が巻頭文を書くことになっているが、本号は小欄が担当した。文中の「市井(しせい)」とは「古く、中国で井戸のある所に人が多く集まり、市(いち)が立ったところから、町、ちまた」を意味する。この二文字はともに左右対称で、実に佇まいが良い。また今号は会報発行から450号目、これを機に「姿勢(しせい)」を正していきたい。                     小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報3月号(第451号)

[三月号]

「大震災はセピア色」

この年齢になると、戦後 まもなくは世の中の目に映るもの全てセピア色であったと感ずる。みな貧しくて辛い時代であったせいか、愉しいことでさえ網膜にはセピア色のグラディエーションでプリントされ、地味ではあるが思い出深いアルバムが積み上げられていった。そして時代の走馬灯が回るにつれ、徐々に明るい色が染込んでいく様であった。六年前の三月、東北の人々の脳裏に刻まれるには原色は余りにも強烈過ぎ、白黒の残像へと少しでも柔らかく置き換えられてしまったことだろう。

大量の涙は悲しみを癒し、感動のそれは人々を勇気づけるとの科学説がある。決して悲しい思い出が消えさることはないが、せめて人々の心の中だけでもセピア色から次第にカラーの思い出へ変っていくように、そして早く喜びの涙も流れるようにと祈る。

三月十一日、震災から六年目の春はきっと色づいて歩み寄って来る。 小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報4月号(第452号

[四月号]

「新聞週間に思う」

「ヨム」と語呂合わせで4月6日から「春の新聞週間」とのこと。

小さい頃は子供、学級新聞と辿ったが、大人の新聞・全国紙を読み初めたのは毎夕の漫画「クリちゃん」が契機だったかもしれない。第一面、経済面と読み進むようになったのはもっと歳を取ってからだが、最近は編集後記を真っ先に評点するのが秘めたる楽しみとなった。若かった頃のロングマン英英辞典のサーフィン読みは知らない英単語で説明されている語句を次々と調べていく延々と続く波乗りのようで楽しかった。老眼となった今、トイレでゆったりと新聞紙面を波乗りするのが趣味となった。知らないことや好奇心を刺激する波が全紙面から次々と押し寄せてくる。 “毎日”発行。“読”み返して校正、裏を取って“売”るは当然だが、“朝日“前にと焦ってそれを怠ってはいけない。ましてや”似怪“は問題外。経験・知識に優る倶楽部会員の歓心を得るのは”波”大抵なことではないが、逆さまから読んでも「シンブンシ」と小学生の頃の遊び心を基に、今後も愉しく広角度の波をお届けしたい。   小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報5月号(第453号)

[五月号]

「ウルトラ母の日」

ペギー葉山が4月に83歳で亡くなった。青山学院高等部在学中から進駐軍のクラブで歌っていたそうだが、甘酸っぱいヒット曲「♪学生時代♪」が青学第二の校歌となっているのは合点がいく。しかし彼女が“ウルトラマンの母“役を演じていたとは意外だった。夫の故・根上淳も“ウルトラマン二代目”の隊長役を演じ、「♪南国土佐を後にして♪」をラジオから聞く粋な演出シーンがあった。今月14日は“母の日”。奇遇にもこの習慣は1913年に欧米から青学に伝わり定着した。「母」の字の二つの「丶」は乳を表している。似てはいるが「してはいけない」の意の「毋」と混同してはいけない。「海」も本来は「母」を使っていたし、「毒」は決して「母」ではありえない。ところで毎月22日はショートケーキの日。カレンダーでは必ず15(イチゴ)が上に乗っているという可愛い遊び心からだが、五月の旬果「苺」の“ツブツブ”を眺めていると何故か亡母を思い出して甘酸っぱくなる。              小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報6月号(第454号) 

[六月号]

「ライバル・円谷と君原」

5月の体操・NHK杯で内村が国内外を通じて個人総合40連勝を成し遂げた。2008年の全日本選手権の優勝から9年かけての偉業である。白井と僅差で迎えた最後の鉄棒の逆転美技はライバルの存在が大きかったことを彷彿させる。

円谷と君原は高校時代からライバルだった。円谷は1964年東京五輪・マラソンで「男は後ろを振り向いてはいけない」との戒めを頑なに守ったため、ヒートリーにゴール直前に抜かれ銅メダリストとなる。君原は1968年のメキシコシティ五輪で「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」との遺書を残し、9ヶ月前に自らの手で終止符を打った円谷が「後ろを振り向け!」と教えてくれた気がして、ライアンの猛追をこれもゴール直前で振り切り、銀メダルを獲得できたと述懐している。銀が手から擦りぬけた者と手離さなかった者。君原は76歳の現在でも「円谷幸吉メモリアルマラソン」に参加し、円谷の墓参も毎年欠かさない。  小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報7月号(第455号)

[七月号]

「夏さ書けん・誤流布」

その人はきっと愉快な話の種を草原に振り蒔きながら闊歩していたのだろう。ゴルフ随筆家「夏坂 健(なつさか・けん)」の本を小欄は多く蒐集している。残念ながら読み切れずに積読(つんどく)だけになっているが、素敵なキャディー嬢を味方にする極めつけの薀蓄話はこれだろう。

かつて英国貴族のスポーツであったゴルフ、貧しかったキャディーをゲームに誘う時は高額のプレーフィーをメンバーが負担することが常だった。それぞれ掌中に隠し持った銀貨を彼の帽子の中にそっと入れる。自尊心を傷つけぬその思いやり溢れる慣習 「Hand In Cap」が優劣を調整する「ハンディキャップ(Handicap)」の語源となった。(やはり握りであった!)

ユーモア溢れる夏坂 健はこの季節になると「夏さ 書けん!」とペンをクラブに持ち替え、涼風溢れるフェアウェイへ度々姿を眩ましたそうだが、これもあながち“誤流布”ではあるまい。

いつか彼の足跡を追ってスコットランドのリンクスへと夢見つつ、今夏も “暑さ 駆けん!”        小堺裕一郎

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報8月号(第456号)

[八月号]

「晩夏の蝉」

八月の晦日は溜めこんだ宿題の量に比例するように速くやって来た。夏休み直前の盛り上がりと余裕は一体何だったのだろうか? 廃屋を「くずや」と読んで、教師に「座布団一枚」と皮肉られた劣等生は蝉が鳴き始めると宿題そっちのけ。下駄は禁物、抜き足差し足、庭に出る。「カナ カナ」「ツクツクボーシ」

大都心の日本橋でも夕刻涼しくなると街路樹にヒグラシはすまし顔で鳴いていた。

米国の大学の語学部では意味の分からない少数民族の言語を音として聞かせ、ヒアリングの訓練をする。人それぞれ聞こえ方は全く違う。「オーシン ツクツク ツクツク ボーシ ウィーヨ ジー」の鳴き声は、この齢になると「往信 着く 着く 逢身 尽く 尽く つくづく忘志 浮い世 爺~」の泣き声となる。

晩世の身に盛夏の終焉を告げる短命の”世観(セミ)”は悟り過ぎていて寂しい。         小堺裕一郎

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報9月号(第457号)

[九月号]

「スパイ大作戦」

米国男優マーティン・ランドーが7月に89歳で亡くなった。

1994年「エド・ウッド」でアカデミー助演男優賞を受賞した名優だが、日本では1967年に始まったTVドラマ「スパイ大作戦」の“変装の名人”と言った方が風貌を思い浮かべやすいだろう。同じく変装の名人、シナモン役の女優バーバラ・ベインとは夫婦であり、その後二人一緒に同ドラマを降板している。因みに彼の演劇の出発点であったアクターズ・スタジオの2,000人中2人という狭き門はスティーブ・マックィーンと共に突破している。

「スパイ大作戦」の原題は「ミッション・インポシブル」(不可能な任務)。その映画シリーズの製作・主演の男優トム・クルーズが先月、その最新作の撮影中に怪我をした。彼は識字障碍を持つ俳優である為、身長170センチの小柄ながら自らの体を張ったスタントを特長として“インポシブルなミッション”を可能にしている。大事に至らなかったのはマーティンが空から護っていたからだろう。  小堺

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報10月号(第458号)

[十月号]

「渚にて」

8月29日早朝、仙台のホテルの一室に居た。仕掛けていたアラーム音が変わっているなと一瞬思ったが、初の“Jアラート”に起こされたことに気付いた。その時脳裏をよぎったのは1959年に米国公開された映画「渚にて」 (原題 “On the Beach”) の最後の一シーン。グレゴリー・ペックの大ファンであった母に連れられて観賞したが、諦めにも似た心の静寂さが、子供ながら印象深かった。ネビル・シュートによる原作は1957年に出版された。局地戦争からナポリ、ワシントン、ロンドンへと戦火が拡がり、第三次世界大戦が中国による台湾封鎖を引き金に勃発する。当時の東西冷戦の核戦争への危機感を基にした60年前の小説だが、驚くほど現在の状況に酷似している。

9月に百メートル走で桐生祥秀は苦難の末に日本人初の10秒を “切り”、2007年に生まれた日本人の半数の寿命はやっと百歳を“超える”というのに、北の独裁者は安易に“切れ”まくり、日本列島を容易に“越える”ロケットを打ち上げ続けている。 小堺

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報11月号(第459号)

[十一月号]

「ノーベル文学賞」

今年も村上春樹氏は残念であったが、2017年のノーベル文学賞は長崎県出身の日系英国人 カズオ・イシグロ氏が受賞した。彼の著書は一冊も読んだことがなかったが、2016年綾瀬はるか主演のTV連続ドラマ「私を離さないで」の宣伝ドキュメントに彼女がロンドン在住の原作者と対談する場面があり、偶然イシグロ氏の人となりに触れる機会があった。臓器提供の為のクローンとレシピエント(臓器などの受容者)との愛と葛藤がテーマとなっているが、近未来いや既に現実化されているのではと感じさせられる背景が不気味であった。そしてふと思い出した映画が「アイランド」(2005年公開)である。こちらは体丸ごとクローンを創造し、クライアントに万が一のことがあれば、スペアとして出荷されるクローンのコロニーが形成されているサイエンス・フィクションだ。かつては万物の創造者のみの為せる領域が被創造者のものとなりつつある現代では、誰がそのコントロールをするべきなのだろうか?小欄も自分のクローンをと思ったが、ガラクタのクローンを造っていては反って“苦労”の連鎖となってしまう。    小堺

 

はし休め(編集後記)

日本橋倶楽部会報12月号(第460号)

[十二月号]

「りんご讃歌」

1665年、万有引力の法則を思いつくキッカケとなったという「ニュートンのりんごの木」が小石川植物園にある。作り話だという説もあるが、接木されたその子孫が日本に贈られたのは1964年のこと。

旬の今、我々が食べている西洋りんごは明治時代に米国から伝わり、初栽培されたのは北海道、現在日本の収穫量の6割を占める青森県ではなかった。元々日本原産のものは「和林檎」と呼ばれ、酸っぱ過ぎて、主に観賞用であったそうだ。

アダムとイブの禁断の果実からだから、人類との付き合いは最も古く、甘く惑わせる「アップル」は果物全般を意味していたというのも頷ける。戦後初のヒット曲「リンゴの唄」は人々の心を躍動させ。現代では米国発の“アップル”が若者の心を誘惑する。因みにニュートンはクリスマスに生まれ、一生独身で過ごし、「リンゴの唄」の作詞者 サトウ・ハチローは名前のように人生“甘く”ないことを悟り、ときに名曲「悲しくてやりきれない」を世に送り出している。  メリークリスマス!     小堺