2018.1~2018.12 安藤優一郎氏の江戸歳時記

安藤優一郎氏のプロフィール

日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。

江戸をテーマに執筆・講演活動を展開。

安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
配信していたコラムを年毎に「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。

2018年は「江戸の食文化」の歳時記です。

2018.01【江戸の餅つき】
2018.02【江戸のお汁粉】
2018.03【江戸の梅干】
2018.04【江戸の雛祭りの食べ物】
2018.05【江戸の潮干狩り】
2018.06【江戸の鰹節】
2018.07【江戸の菓子】
2018.08【江戸の麦湯】
2018.09【江戸の冷水売り】
2018.10【江戸の柿】
2018.11【江戸の焼き芋】
2018.12【江戸の千歳飴】

2018.01【江戸の餅つき】

年末が近づいてくるとお正月用の餅をつく準備に取り掛かるのは、江戸も今も変わりがありません。江戸では十二月十五日から大晦日まで、餅つきの準備で賑やかでした。お菓子屋に注文したり、餅つき人足に依頼したりしています。

もちろん、自分でつく人もいます。江戸の人々は餅の作り方について、結構うるさかったようです。冬の冷たい水でつくと美味であると唱える人がいれば、杵をつく回数で美味かどうかが決まると唱える人もいました。数多くつかないと米が粒とならず、味が荒くなってしまうというわけです。百五、六十回もつけば、甘美な味になるそうです。

滝沢馬琴の天保五年(1834)十二月の日記によると、馬琴は家族を動員して鏡餅、のし餅、水餅を作っています。水餅から、あんころ餅も作っています。

2018.02【江戸のお汁粉】

お雑煮とともにお汁粉は正月の食べ物の定番ですが、江戸時代、お雑煮やお汁粉を売る屋台の看板には「正月屋」と書かれていたそうです。お正月気分を盛り上げるのに一役買っていました。お汁粉というと善哉との違いがよく話題にのぼりますが、江戸時代の書物『守貞漫稿』では次のように説明されています。

京都や大坂では、皮の付いた小豆に黒砂糖を加えて丸餅と一緒に煮て作るのが善哉と呼ばれたのに対し、江戸では皮を取った小豆に白砂糖か黒砂糖を加えて切餅と一緒に煮るのがお汁粉と呼ばれたそうです。ただし、京都や大坂でも小豆の皮を取ったものは善哉でなくお汁粉。もしくは「すき餡の善哉」と呼びました。江戸では善哉に似たものを「つぶし餡」と呼んだそうです。

2018.03【江戸の梅干】

そろそろ梅がほころぶ時節となりますが、江戸には梅の名所が数多くありました。梅屋敷と呼ばれた梅園までありましたが、観梅だけが梅の楽しみではありません。花が散った後の梅の実も、江戸っ子にとっては大きな楽しみでした。

梅の実を使った加工品としては、何と言っても梅干です。鎌倉時代から梅干はありましたが、現在のように紫蘇の葉を加えて赤くしたのは江戸時代からでした。江戸の料理書には、次のような製法が記されています。梅一斗に塩三升を混ぜて重しを付ける。梅酢が出て来たら昼は日に干し、夜は梅酢に戻して壺に入れて保存するそうです。

梅干のほか、梅の漬け物もあります。青梅の塩付けである「青梅漬」、酒の粕に漬けた「糟梅」です。もちろん、梅酒もありました。

2018.04【江戸の雛祭りの食べ物】

三月三日の桃の節句は過ぎてしまいましたが、今回は雛祭りの時の食べ物を取り上げてみましょう。江戸前期は桃の花を浸した酒(桃花酒)と草餅を飲食するのが定番でしたが、江戸後期に入ると桃の花は飾りとなります。桃花酒に代って呑まれるようになったのは白酒です。白酒とは、蒸したもち米と米麹を味醂や清酒に混ぜて発酵させた後、すり潰して造った酒のことです。

そして草餅に加えて、ハマグリなどの貝類、魚や鳥などの形をした菓子も食べるようになります。もちろん菱餅もありましたが、江戸時代は緑と白の三段重ね、あるいは五段重ねでした。緑と白の二色だったのです。赤が加わり、緑・白・赤の三色となったのは明治に入ってからのようです。

2018.05【江戸の潮干狩り】

春は潮干狩りのシーズンですが、江戸の潮干狩りの名所としては品川、芝浦、高輪、深川洲崎などが挙げられます。江戸っ子にとり、潮干狩りとは行楽と実益を兼ねた楽しみでもありました。午前六時ぐらいから潮が引きはじめます。御昼ごろに陸地となりますが、待ちかねた江戸っ子は海辺に殺到し、ハマグリ、アサリ、シジミなどの貝をたくさん拾い集めます。

貝だけではありません。砂の中にいるヒラメも拾ったようです。さらに、残った朝汐の中にいた小魚も捕まえて、宴会を催したといいます。潮干狩りのみならず、この宴会も楽しみだったことは言うまでもありません。ちなみに、大坂湾では住吉や堺が潮干狩りの名所として知られていましたが、ハマグリは取れたものの、アサリは取れなかったといいます。

2018.06【江戸の鰹節】

春から夏にかけて、江戸では初鰹が話題をさらいます。旧暦の四月つまり現在の五月に取れる鰹は初鰹と称され、初物好きの江戸っ子の間で大変な人気を博しました。初鰹は高価であり江戸っ子の口にはなかなか入りませんでしたが、加工した鰹は食べていました。鰹節です。

鰹節は室町時代に生まれたと伝えられます。江戸初期は紀州熊野の熊野節が良品とされていましたが、黴付けと乾燥を繰り返す製法が普及していったことで、土佐節や薩摩節が最上品とされるようになりました。当初、鰹節の主たる消費地は上方であったため、紀州や土佐産の鰹節は大坂の鰹節問屋を介して京都や大坂に送られました。しかし、江戸中期に入ると江戸が大消費地となったことで、大坂の問屋は江戸に土佐産などの鰹節を直送するようになります。こうして、鰹節が江戸の「だし」の主役となるのです。

2018.07【江戸の菓子】

現在、毎年六月十六日が全国和菓子協会により和菓子の日に設定されていますが、この日が嘉祥(かじょう)の日であることが理由です。嘉祥の日、江戸にいる大名は江戸城大広間で御菓子を下賜(かし)されるのが習いでした。下賜されたお菓子は饅頭や羊羹などですが、江戸っ子の間でも饅頭や羊羹は大人気でした。

当初、砂糖は輸入に頼っていたため高価であり、甘い饅頭はなかなか食べれませんでしたが、江戸中期に入ると砂糖が国産化されて安くなったことで、現在のような甘い饅頭が手軽に食べられるようになります。

一方、羊羹は餡に小麦粉と葛粉を加えて蒸した蒸羊羹が主流でした。しかし、同じく砂糖が安く使えるようになると、餡に砂糖と寒天を加えて練りながら煮詰めた練羊羹が主流となっていきます。

2018.08【江戸の麦湯】

夏の飲み物として麦茶は定番ですが、江戸時代は麦湯と呼ばれていました。煎茶が普及していなかった江戸前期の頃から、庶民の飲み物として普及していたようです。

江戸後期にあたる文政期には、夏に入ると麦湯の店が道端に現れるのが江戸の風物詩となります。「むぎゆ」という文字を行燈(あんどん)に記した店が、とりわけ夜になると数多く出てくるのです。

麦湯の店では、桜湯、くず湯、あられ湯なども飲むことができました。価格も安かったため、夏の夜の暑苦しさに耐え兼ねて街頭に出てきた江戸っ子でたいへん賑わったそうです。さらに、給仕する女性たちが店の賑わいに彩りを添えました。いわば麦湯の店は夏季限定の水茶屋だったのです。

2018.09【江戸の冷水売り】

前回、江戸の夏の風物詩として麦湯の店を取り上げましたが、冷水売りも街頭に現れはじめます。井戸などの水が生温い上に、ゴミも混じりやすいという江戸の水事情の悪さが背景にありました。泉などから冷水を汲み取り、白砂糖と寒晒粉の団子を加えた上で一椀四文で売りました。糖を多く加えて甘くし、一椀八文や十二文で売ることもありました。冷水売りは「ひゃっこい」「ひゃっこい」というフレーズを口ずさみながら売り歩いたそうです。

白玉売りも江戸の夏の風物詩でした。白玉とは寒晒粉の団子であり、白砂糖をかけたり汁粉に入れて売りましたが、夏には冷水を加えます。つまり、夏になると白玉売りが冷水売りにも変身するわけです。なお、京都や大坂では冷水に寒晒粉の団子を入れず、白砂糖だけ入れました。冷水売りとは呼ばれず、砂糖水屋と呼ばれたそうです。

2018.10【江戸の柿】

秋の果物というと梨や葡萄が思い浮かびますが、なかでも柿は平安時代の「延喜式(えんぎしき)」と呼ばれた記録に既に登場しています。

江戸時代に入ると、江戸近郊の農村では江戸百万の人口をターゲットにした野菜や果物の生産が盛んとなります。

柿の生産も盛んでしたが、江戸っ子に人気があったのは現在の長野県飯田地域の柿でした。立石柿(たていしがき)と呼ばれましたが、他国の柿にはない風味と甘味があったそうです。収穫された立石柿は天竜川を下って江戸の柿問屋のもとに出荷されました。当時、立石柿はブランド化しており、「たていし」という呼び声のもと江戸の町で売られました。立石柿は江戸城にも納入されました。将軍に献上された柿であったことも、江戸っ子に人気が高かった理由でしょう。

2018.11【江戸の焼き芋】

そろそろ焼き芋が恋しい季節となりますが、薩摩芋が日本に伝わったのは江戸時代のことです。最初は中国から現在の沖縄にあたる琉球へ、そして琉球から薩摩国へ伝わって薩摩芋となりました。

関東で広く栽培されるようになったのは、江戸中期にあたる享保期のことです。八代将軍徳川吉宗の時代でした。名町奉行として知られる大岡忠相のバックアップを受けて、青木昆陽が薩摩芋の試作を行い、その種芋が関東各地に配られたのがきっかけです。こうして、関東各地に薩摩芋の産地が生まれました。

江戸で焼き芋屋が登場したのは、寛政五年(1793)のこととされます。ただ、焼き芋を専門に売る店はあまり増えず、各町に設けられた番小屋などで番人が副業として売るスタイルが一般的だったようです。

2018.12【江戸の千歳飴】

十一月十五日は七五三のお祝い日です。お宮参りの御土産と言えば「千歳飴」ですが、その風習がはじまったのは江戸時代です。五代将軍徳川綱吉の時代にあたる元禄・宝永期に、浅草に七兵衛という飴売りがいました。飴売りの七兵衛が、紅白の棒状の飴を「千年飴」「寿命糖」として売り出したのがはじまりと伝えられます。千年も寿命が保てる飴という意味で売り出したわけですが、いつしか千歳飴という名称に変わっていったわけです。

江戸っ子にとり代表的な菓子だった飴は、派手な服装の飴売りが歌ったり踊ったりしながら賑やかに売り歩くのが常でした。その服装には渦巻が描かれるのがお約束になっていました。店で売る場合も、看板には渦巻が描かれました。