「日本橋の美橋たち」①
渡し舟を無骨で荒々しい男とすれば、それらを川から無用のものにしてしまった橋は強くて優しい女であろうか。昔から川面に映った自分の姿を見ながら身づくろいをするうちに橋はいつしか多くの人々の物語を見てきたのだろう。
日本橋川は神田川から分流し、隅田川へ合流するまでの5km程の一級河川である。むしろ「小石川橋」から「永代橋」までの徒歩1時間ほどの道のりと言った方が分かり易いかもしれない。穏やかな川面を鏡として架けられた橋は「三崎橋」から数え始めると「豊海橋」まで24程、良く見ると美人が多い。これらの中でも、古くから日本橋界隈の市井の人々の往来に役立ち、愛されてきた「新常盤橋」から「江戸橋」までの7つの橋はそれぞれの魅力に磨きをかけた美人姉妹達である。
泉鏡花の「日本橋」(大正3年9月刊行)は日本橋にあった花街、檜物町を舞台にした悲恋物語である。
「お客に飴舐めさせるんだとよ。」 「何を。」 「其の飴をよ。」
細田前理事長の「榮太樓總本鋪」の飴であるはずもないが、偶然にもお膝元の日本橋西河岸町で飴細工絡みの騒動から話は始まる。
このコロナ禍のステイホーム中に復刻版「日本橋」を購入し、また初めて市川崑監督の「日本橋」(昭和31年10月公開)を観た。主演は淡島千景と山本富士子、冒頭のこのセリフを毒づくガキ大将は川口浩が扮している。その矛先の半玉は若尾文子、物語の要所々々を締める警官に船越英二と豪華な布陣である。
舞台となる橋は「西河岸橋」と「一石橋」の2つのみで、「日本橋」は登場しない。「一石橋」の欄干から栄螺と蛤を投げ放つシーンでは当時路面電車が橋上を往来していたことが窺える。人形町の花街「芳町」から日本橋「檜物町」へ鞍替えしたお孝(淡島千景)が西河岸町の置屋へ引っ越して来てから清葉(山本富士子)との軋轢が始まる。
一方、三島由紀夫の「橋づくし」(昭和31年12月発表)は内外ともに評価の高い短編小説で、他愛のない願掛けで橋渡りをする4人の女性を描いている。登場する築地川に架かる橋の数も「三吉橋」を2つとして数えているものの、同数の7つ。これら二つの作品でも女と橋が美しく活躍し、男と警官は無駄に汗をかく。三島が「橋づくし」を発表する2ヶ月前に、この市川崑監督の映画「日本橋」は公開されている。鏡花を評価していた彼が日本橋川に架かる7つの橋を舞台にして作品を遺してくれていたらと残念でならない。
先人達は素晴らしい川と橋、そして女性の物語を遺してくれた。現在、築地川、日本橋川ともに高速道路に埋もれているが、目を瞑るだけで容易に美しい川と橋のあった風景へ呼び戻してくれる。
「日本橋の美橋たち」②
1603年、家康は江戸に開幕するや否や、神田川の開削を行う。三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となり、飯田堀、飯田川と呼ばれた。
また内濠と外濠を結ぶ道三堀が掘られ、大川(隅田川)からこの水路を利用して江戸城まで大量の物資が運ばれた。現在の和田倉濠から日本ビルの跡地に建設中の東京トーチ前を抜け、日銀手前の常盤橋公園の外濠までの1キロメートル程の堀である。明治43年(1909)に道三掘の西半分と外濠が埋め立てられ、再度神田川まで開削し、神田川の派川として現在の日本橋川ができあがった。
つまり1603年に架橋された木造太鼓橋・初代日本橋は堀に架けられた橋であり、日本橋川が完成する前から“日本橋”と呼ばれていたことになる。では何故日本橋と呼ばれることになったのだろうか?江戸っ子と言うより“日本橋っ子”とお呼びした方が相応しい前理事長・故細田安兵衛氏は現在の石橋が百歳となった2003年に当俱楽部で開催された架橋百年記念・日本橋倶楽部連続講演会において日本國の正式呼称・ニッポンであるならば「ニッポンバシ」となるが、「二本の丸太を渡した」橋であったので「ニホンバシ」という池田弥三郎氏の説を推されている。
二本橋から日本橋となり、その後その下を流れる川を日本橋川、周辺地域を日本橋と称するようになったとは何ともはや凄い橋である。因みに大阪・道頓堀川に架かる橋は日ノ本の國の日本橋(ニッポンバシ)である。
さらに細田氏は橋の欄干に聳え立つ「麒麟像」は鳥類ではなく、獣類であるので、その翼様のものは鰭(ひれ)であるとも語られている。日本酒の肴になりそうな愉しい話である。
江戸城に登下する為の桝形・常磐橋門の前には武士専用の常磐橋(日本銀行前)が五街道に繋がるように外濠に架けられ、他方日本橋は市井の民が賑々しく往来する橋であった。
江戸時代には12回も架け替えられたという記録が残っているが、現在の20代目(19代目と言う説もある)の日本橋は明治44年(1911)に木造の橋から架け替えられた初めての石橋である。1999年に国の重要文化財に指定され、今後の架け替えの可能性は無いが、橋梁はしっかりと保全されているので112歳の“石橋を叩いて渡る”のは野暮というものである。
「日本橋の美橋たち」③
現在の日本橋は明治44年(1911)に架橋された。大正12年(1923)の関東大震災、昭和20年(1945)の東京大空襲にも耐え生き延びてきた。一方、江戸時代の日本橋は大火による焼失、地震による崩落などにより全て木造で再架橋されている。「落ちたらまた架け替えればいい」と江戸っ子の新し物好きでカラッとした気性がそうさせたのかしれない。
しかし明治36年(1903)、明治政府により幅6間(10.9m)以上の橋梁は鉄橋あるいは石橋とすると定められ、明治5年(1872)に日本橋魚河岸の魚問屋組合の費用負担により改架された最後の木造・太鼓橋はあっけなく現在の花崗岩の石橋に生まれ変わった。
東京市の紋章を支え持つ獅子像の威厳ある様、麒麟像の凛とした美しさは皮肉にも1964年の東京オリンピックの一年前、首都高速道が覆いかぶさるようなってから反って際立つようになった気がする。
橋上の何もなかった時代にはむしろ北詰に建っていた深紅のレンガビルの方が橋を見下ろして強い存在感があった。明治40年(1907年)創業の帝国製麻(現・帝国繊維)本社ビルは大正4年(1915)竣工。空襲による崩壊を免れ、戦後の復興を眺めてきたこの建物は昭和39年(1964)に大栄不動産本社ビルとなり、昭和62年(1987)、老朽化により惜しまれつつ解体された。
「赤煉瓦ビル」と呼ばれていたこの建物は日本銀行・本店(1896)、中央停車場(現東京駅1914)などの設計で有名な「辰野 金吾」が設計している。
一方1911年に完成した日本橋は装飾を「横浜赤煉瓦倉庫(1911)」で知られる設計者「妻木 頼黄(よりなか)」が担当した。工部省工学寮(のちの工部大学校、現東京大学工学部)の第1回生で首席卒業の辰野の5年後輩にあたり、共にジョサイア・コンドル教授に学んでいる。その後、辰野と妻木は帝国議會・新議事堂(現国会議事堂)の設計を巡って相対峙する。
辰野は日本橋川沿いのベネチアン・ゴシック様式の渋沢栄一邸(1888)やこの赤煉瓦ビルで日本橋の周囲を固め、一方、妻木は旧日本勧業銀行本店(1899)や旧横浜正金銀行本店(1904)で日本銀行の設計を独占していた「辰野 金“庫”」に対抗して行く。またドイツ留学でビール愛好家となった妻木は大阪麦酒会社(現アサヒビール)吹田工場(1891)、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール)目黒工場(1889)などの設計で辰野に“一泡”吹かせようと企んでいたのかもしれない。
いよいよ2040年には橋上の首都高速道路が撤去される予定である。赤煉瓦ビルのバルコニーに佇む辰野と麒麟像前の妻木が直接視線を合わせ、かつて競い合った日々を語り合う声が橋上から聴こえてくるようで感慨深い。
「日本橋の美橋たち」④
日本橋川は千代田区JR・飯田橋駅近くの小石川橋を始点として神田川より分かれる。鎌倉橋を過ぎ、中央区に入ると三つの“ときわ”と呼ばれる橋を続けざまに潜り抜ける。
一つ目の「新常盤橋」は大正9年(1920)、江戸通りが延伸されるのに伴い架けられた3連アーチの美しい橋である。残念ながら昭和63年(1988)に東北新幹線高架工事の為に架け替えられてしまった。
この橋が架けられる以前、つまり江戸通りが外濠に突き当たっていた頃、中央通りを通る市電の「本石町」駅と外濠沿いを走る市電の「常盤橋」駅を繋ぐ江戸通りにたった300メートルばかりの不思議な電車があった。後に新常盤橋が架けられ、江戸通りが外濠を跨ぐようになると、東京駅北口からこの新常盤橋までの500メートルの路線が新設され、本石町から浅草橋を経て三ノ輪までの既路線とを結ぶ新路線にこの無料連絡電車は組み込まれることになる。
二つ目の「常磐橋」は家康が入府して初めて架けた江戸最古の橋である。寛永6年(1629)、江戸城出入りの常盤橋門が設置され、江戸一番の賑わいと言われた五街道につながる本町通り(現大伝馬本町通り)が外濠を渡る橋として陸奥国や出羽国の大名により改架された。
明治10年(1877)には木造から2連アーチの石造りの橋に架け替えられたが、同名の「常盤橋」が間近に新設されたため、“皿”から“石”の字に変え「常“磐”橋」と呼ばれるようになった。令和3年(2021)に修復工事が完了し、見違えるほど綺麗な橋となったのは御存知の通りである。
三つ目の橋が「常盤橋」である。関東大震災の復興計画の下、幅の広い橋として大正15年(1926)に架けられた。百年近く経った現在でも現役の2連アーチの堅牢な橋である。
江戸時代、「常磐橋」の外濠東側沿いに金小判を鋳造していた「金座」があった。明治になり、この跡地に日本銀行ができると、これら三つの“ときわ”橋が並ぶ日本橋川東側界隈は日本経済を牽引する金融街に発展していく。
その立役者であった本年発行の新一万円札の顔となる渋沢栄一翁の銅像は「常磐橋」の西側に今でも眼光鋭く佇んでいる。同様に米国100ドル紙幣に肖像として描かれているベンジャミン ・フランクリン(1706-1790)の格言として 「Time is money」はつとに有名であるが、江戸の市井の人々は遥か昔より、「ときわ金なり」と実感していたようだ。