社長の呟き 新・はし休め「日本橋川に架かる日本橋の橋々」

新・はし休め

 

誰もが認める生粋の江戸っ子・榮太樓總本鋪の細田安兵衛氏は現在の石橋が架橋されて百年を迎えた2003年の日本橋倶楽部連続講演会で日本国の正式呼称(ニッポン)の橋であるならば「ニッポン橋」となるが、「二本の丸太を渡した橋」であったから一本、二本の「ニホン橋」という池田弥三郎(ヤサブロウ)氏の説をお話しされています。諸説ありますが、酒の肴になりそうな愉しい話です。なお大阪道頓堀に架かる橋は日本橋(ニッポンバシ)です。

徳川家康が江戸に開幕した1603年、日本橋川に木造の太鼓橋・初代の日本橋が架けられました。日本橋川は江戸城の外濠を共用し、当時大川と呼ばれていた現在の隅田川へ流れ込みます。江戸城の桝形・常磐橋門の前には常磐橋が五街道に繋がるように外濠に架けられましたが、日本橋は日本橋川に架けられた庶民も往来できる橋でした。

江戸時代には12回も架け替えられたという記録が残っていますが、現在の20代目の日本橋は明治44年(1911年)に木造の橋から架け替えられた初めての石橋です。

1999年に国の重要文化財に指定されましたので、今後の架け替えはありませんが、石橋を叩いて渡る必要はあるかもしれません。

1590年、家康が江戸へ下向(げこう)させられたのは8月。

江戸城を築いた後、この広大な湿地帯に街づくりを開始し、水上交通の為に堀割を縦横に巡らしていきます。常盤橋から道三河岸へと続く最初に造った堀が日本橋川であり、その近くに下町として最初に作られたのが現在の商業の中心地、日本橋室町・本町です。時代は一挙に幕末へ飛びますが、日本橋室町にある大島博会員の千疋屋本社ビルの横に加賀出身者が多かった為「浮世小路(うきよしょうじ)」呼ばれる小道がありますが、その突き当りに卓袱(しっぽく)料理の「百川」がありました。

ペリー提督率いる黒船来襲の際には幕府に命ぜられ、米国の荒くれ船乗り達に懐石料理を当時二千両、現在の2億円分の懐石料理を控え分200食を足して500食も用意することができた山谷の「八百善」、深川の「平清(ひらせい)」と並び称せられる大料亭でしたが、明治になって忽然と店をたたんで消えてしまいます。

「朝昼晩三千両の落ち処」と言う江戸川柳があります。一日に千両、約一億円が落ちた場所が日本橋の朝の魚市、人形町の昼の歌舞伎と晩の元吉原と3つもありました。「百川」を支えていたのは江戸の台所が目と鼻の先にあったからでしょう。六代目三遊亭圓生で有名な落語「百川」は浮世小路から始まり、田中源治会員の田源ビル近くの江戸三座のうち二座があった三光稲荷神社へと舞台が進みます。お腹が空いてきましたので晩の落ち処・元吉原の話は“お後が宜しいようで”!

日本橋川は千代田区のJR・飯田橋駅近くの小石川橋で神田川から分かれ、龍閑橋を過ぎ中央区に入ります。そこから川は“ときわ”と名の付く橋を3つ続けて潜り抜け、日本橋の橋へと続きます。

一つ目は新常盤橋、二つ目は皿は割れやすいのでと石の字を使った常磐橋、そして常盤橋です。この3つの“ときわ”橋の東側には江戸時代に金小判を鋳造していた金座がありました。

明治になり、この跡地に日本銀行ができ、その後常盤橋周辺はロンドンのシティのように日本の金融街へと発展していきます。江戸の人々はそうなることを予見していたのでしょう。昔から「ときはかねなり(常盤は金なり)」と申しますから。

外濠を流れてきた日本橋川は呉服橋を目前に新常盤橋から左へ曲がり、外濠と別れ常盤橋を潜(くぐ)り「一石橋」へと向かいます。江戸時代に川を挟んで金座御用と御用呉服商の二つの後藤家が向かい合い、両家が度々この橋の普請をしたことから物の量を計る五斗たす五斗で「一石橋」と名付けられたとのことです。誠に江戸の人々は洒落っ気があります。

この「一石橋」は別名「八つ見橋」とも呼ばれ、江戸時代には木造のこの太鼓橋から日本橋や江戸橋など8つもの橋が見えたそうです。現在首都高速の出入口路も撤去され、少しずつ昔の風景をとり戻していくことになるのでしょう。

日本橋川下りもいよいよ日本橋に近づいてきましたが、その日本橋の手前にひっそりと佇む目立たない橋が「西河岸橋」です。

河岸(かし)とは舟から人や荷物をあげおろしする船着場のことを言います。日本橋では江戸時代に魚市として発展した魚河岸が有名ですが、その後日本橋川沿いの小網町に塩 油 米 酒 醤油など次々と河岸が誕生していきます。

泉鏡花の小説「日本橋」は一石橋と西河岸橋の近くにある延命地蔵尊、そして日本橋花街が舞台となります。お孝(こう)と清葉(きよは)の二人の芸者が医学生・葛城を巡って愛の駆け引きを繰り広げます。市川崑が監督した1956年の映画では淡島千景と山本富士子が芸者の意地をぶつけあい、当時無名の若尾文子が芸者の卵・半玉を可愛く演じ、また古き良き日本橋の街並みが再現されています。

西河岸橋近くには江戸時代より「金鍔」で有名な榮太樓總本鋪があります。昨年11月に亡くなられた六代目店主細田安兵衛さんは生粋の江戸っ子、その洒脱なお話がとても粋で楽しみでした。「京都では粋(すい)と言うだろう、その反対は不粋(ぶすい)。江戸では粋(いき)だね。その真逆は何て言う?おまいさん(ここが大事です。お前さんではなく、〝おまい”さんです)おまいさんのように、みなまでしゃべってしまう輩を野暮と言うんだ」と良くからかわれました

いよいよ橋めぐりも日本橋まで参りました。実はこのお江戸・東京中心の橋を幾千回と往来したにもかかわらず、私は小さい頃の印象が余りありません。

欄干の装飾や麒麟像の美しさは皮肉にも1964年・東京オリンピックの一年前、首都高速が覆いかぶさるようにできてから際立つようになった気がします。むしろ北詰に建つていた帝国製麻ビルの方が(現在は建て替わった大栄不動産ビルですが)橋の上の何もない空間に強く存在感を示していました。

通称「赤煉瓦ビルと呼ばれていたこのビルは日本銀行・本店(1896)、東京駅(1914)などの設計で有名な「辰野金吾」が1915年に設計・竣工させています。1911年に完成した日本橋は橋梁設計を米本晋一、日下部辨二郎、装飾を妻木 頼黄(よりなか)が担当しました。

妻木と言えば「横浜赤煉瓦倉庫」の設計者。その後辰野とは国会議事堂の設計を巡って対立します。辰野は赤レンガ造りの東京駅と帝国製麻ビルで妻木の「横浜赤レンガ倉庫」を凌駕するように次々と日本橋の周囲を固めていきます。

妻木は日本橋の上で「”建つの”は”堅固”な煉瓦造りばかり」と嘆いていたかもしれませんが、大阪麦酒会社(現アサヒビール)吹田工場、日本麦酒醸造会社(現サッポロビール)目黒工場など多くの醸造所の設計で辰野に”泡”を喰わせます。

かつて日本橋區が存在したのを御存知でしょうか?地名から命名された橋は数多くありますが、橋の名前が地名になり、區名までなったのは日本橋だけでしょう!

日本橋區は1878年(明治11年)に設置され、1889年(明治22年)に東京府・東京市が誕生すると15区の一つに組み込まれます。1932年(昭和7年)にはその数は35區に増え、1943年(昭和18年)に東京府と東京市は併合され東京都と改称されます。

1947年(昭和22年)になると、京橋區と統合され中央区へ、現在の東京都23区になります。その際に日本橋の名を残したいと、本石町や本町、室町、人形町など日本橋の名を頭に冠しているはその例で、麹町區と統合され千代田区となった神田區も東紺屋町、鍛冶町、北乗物町など職人の町であった神田の往時を偲ぶことができます。

しかし由緒ある多くの町名が消えてしまったのは淋しい限りです。さて、過去ご紹介してきた橋は全て日本橋區にあった橋です。新常盤橋に始まり日本橋を過ぎ、あとは江戸橋と鎧橋、茅場橋、湊橋(みなとばし)、豊海橋(とよみばし)を残すのみとなりました。

11月4日、生粋の江戸っ子と言われた「榮太樓総本舗」の細田安兵衛氏を偲ぶ会が催されました。安兵衛さんと言えば河東節と思い出話が多く出ました。

日本橋は江戸商いの始まった場所、その中心が日本橋の南詰にあった魚河岸です。現在の石造りの日本橋は20代目、111歳となります、それ以前の火事などで落ちた木造の日本橋はその都度、地元魚河岸の寄進で架け変えらました。

そしてその日本橋に生まれたのが河東節。江戸太夫河東が、享保二年(1717年)に十寸見 河東(ますみ かとう)を名乗って創始した代表的な江戸浄瑠璃のひとつと言われます。七代目市川團十郎はこの河東節の「所縁(ゆかり)江戸櫻」を成田屋の『歌舞伎十八番(じゅうはちばん)の内 助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』の「出端(デハ)の唄」としました。また舞台で使用する引幕と助六の下駄と江戸紫の鉢巻はいまだに魚河岸旦那衆から寄贈されます。

昨日11月7日から十三代目市川團十郎白猿(ハクエン)襲名披露公演が始まりました。「河東節御連中(ゴレンジュウ)様、どうぞ、お始め下さりましょう」と舞台いっぱいに広がる吉原の三浦屋の御簾(みす)の内に控える玄人はだしの旦那衆に声を掛けます。

さてさて、舟は日本橋川を下り、日本橋を過ぎました。次なる橋は「江戸橋」。江戸という地名は吾妻鏡が初見とされ、平安時代後半に「江の入り口」と言う意味から発生したとされます。

何と江戸と自慢気に名乗るこの橋周辺には隣の魚河岸に対して米、塩、油、酒、醤油、味噌などの商いの河岸が続いて誕生していきます。

その後、益々取引が活発になり、明治になると「日本郵便」や「第一国立銀行」、「東京株式取引所」などが次々と設立されるのは当然のことで、文字通り江戸・東京の商業の中心地であったことがうかがえます。また橋の南詰には明暦の大火後に延焼防止のための広小路が設けられ、両国広小路や上野広小路のように多くの人々の行き交いで大変賑わっていました。

現在の江戸橋は鉄橋ですが、関東大震災後、同様に防火対策の為に広い昭和通りが完成すると、少し移動した江戸橋を通過することになります。現在、正式には「都道316号」と呼ばれ、東京の南北を走るこの通りは今も交通の中心であり、私の誕生日と同じ数字なので良く使う大好きな通りです。日本橋の橋上と同様に通りの上を通る首都高速が撤去されれば、江戸橋は青い空の下、”江戸晴れ”となることでしょう!

日本橋川に架かる「鎧橋」は東京証券取引所の建物の前にあります。この名前の謂れは諸説ありますが、源頼義が自分の鎧を投げ込み、暴風雨を治めたという説、平将門が甲冑を奉納したと言う説。

明治5年に三井、小野、島田の3人の豪商により初めて架橋されるまでは「鎧の渡し」に頼っておりました。

さてこの界隈の「兜町」と言う地名は近くの兜神社内にある兜岩からですが、これについても源義家が楓川(かえで)のほとりに兜を埋めて塚を築き「兜塚」と呼んだとか、兜を岩にかけて「兜岩」と呼んだ。藤原秀郷(ひでさと)が平将門を討った後に将門の兜を埋めて「兜山」としたなどと定かではありません。

明治になり、周辺には第一国立銀行や東京株式取引所が開設されるなど澁澤榮一等の足跡に触れることができます。また鎧・兜と名付けられたこの地が後の日本経済の中心となる戦場になったことは深い因縁を感じます。

さて、「勝っても兜の緒を締めよ」、戦う前に「兜を脱ぐな」とは今のワールドカップサッカー・侍ジャパンへ伝えたい先達(せんだつ)の心構えです。

日本橋川に架かる橋めぐりもいよいよ師走に入りました。

「茅場橋」(かやば)初代の橋はいつ頃架けられたかは不明です。江戸・明治・大正時代の古地図には無く、昭和8年11月の地図には載っていることから大正12年の関東大震災後の復興計画によって造られた「新大橋」通りの為に初めて架けられたものと考えられます。家康が江戸城築城の際に茅商人を集めて茅場町としたと言う説がありますので、その町名から「茅場橋」と呼ばれるようになったようです。現在の橋は1992年架橋で、界隈は言わずと知れたオフィス街です。

続く「湊橋」は延宝7年(1679)に架けられた当時大川と呼ばれた隅田川から江戸の水路交通の要所であったところから「湊橋」と名付けられ、界隈もかなり賑わったとのことです。

そして隅田川へ流れ込む最後の橋が「豊海橋」(とよみ)です。元禄11年(1698)に架橋され、江戸水運の出入口であったことから「豊かな海」の命名も良く分かります。また吉良邸への討ち入り後、永代橋で大川を渡った赤穂浪士はこの橋から主君の菩提寺・泉岳寺を目指したとされます。別名は「乙女橋」。

さて、これまで中央区日本橋地域にある日本橋川に架橋された11の橋を巡ってきましたが、これらの中で「湊橋」と「豊海橋」だけは橋上を高速道路が覆っておりません。上空は奇麗な日本晴れです。

今まで、日本橋地域の日本橋川に架かる橋をお話しさせて頂きましたが、この川沿いの水運により河岸経済が繁栄し、また江戸文化の発展にそれぞれの橋が多く寄与したことは明白です。

この川沿いを散策するとそれは常盤橋から日本橋を通って隅田川へと繋がって行ったことが良く分かります。

現在、高速道路が覆っていなかった昔の風景に出会えないのは残念ですが、眼をつぶり風景を瞑想することで昔日を感じとることができます。是非一度お試しください。

さて、日本橋周辺は常盤橋から日本橋にかけて、現在再開発が進んでおり、川に親しみながら散策できるようになります。特に日本橋の橋上は高速道路が撤去され、念願の昔の風景を取り戻します。

前にもお話ししたように19とも20代目と言われる現在の日本橋は明治44年(1911年)に木造の橋から架け替えられた初めての石橋です。江戸時代の木造の日本橋には親柱に「擬宝珠」が飾られており、これは格式の高い橋であることを示し、江戸では他に京橋と新橋にしか見られません。

以前、山本德治郎会員と三井不動産様の岩沙会員をお訪ねした際に日本橋の上の高速道路が撤去された暁には歩行専用の太鼓橋「日本橋」を架ける計画であると伺いました。

前々回の例会で三井不動産の七尾様に「日本橋再生」のお話しを頂きましたが、その際に将来の日本橋周辺想像図にこの太鼓橋が描かれており、計画では2040年完成とのことですが、皆さんしっかりと長生きして、一緒にこの太鼓橋の渡り初めをしたいと願っております。

明けましておめでとうございます。

さて箱根駅伝はご覧になりましたか?

今年も私は1月3日、日本橋のたもとで観戦しました。早稲田、慶應、明治、東京高師(現筑波大)の四校が出場した大正九年の「四大校駅伝競走」から始まった余りにも有名な駅伝の現在名は「東京箱根間往復大学駅伝競走」。関東学生陸上競技連盟が主催するため関東の大学のみ出場権を有します。

1999年の第75回大会から復路の第10区は馬場崎門を右折、京橋から中央通りへ回り込み、日本橋を渡ってゴールの読売新聞本社前へ向かうように変更されました。

これは日本橋架橋88周年を機に「名橋日本橋保存会」を中心に地元団体が東海道の起点である日本橋を通過する意義を熱心に説いたためです。橋から1キロメートル先のゴールまでの優勝争いやシード権をかけた熾烈なドラマは橋の北詰を左折してから幕が開きます。そして駅伝終了後は界隈のレストラン、商店は大いに賑わいますが、江戸時代から続く老舗眼鏡舗の十四代目当主が「駅伝も室町三丁目の交差点まで来ないと「益(えき)出ん!」と嘆いていたのを思い出します。

来年の第100回記念大会では関東学連だけではなく全国の大学が予選会出場資格を持ち、益々狭き門となるのは必至ですが、関東以外の大学の期待は増します。

来年も日本橋は1月3日昼九つ半、箱根からの疾風が橋をはしり抜け、新年が熱く明けることでしょう。