2021.01.18 安藤優一郎氏の江戸歳時記
安藤優一郎氏:日本の歴史学者 専門は日本近世史(都市史)
2021年は「江戸の米①~⑥」「江戸の野菜①~⑥」です。下記タイトルで更新予定です。
過去のコラムは、コラム「安藤優一郎氏の江戸の歳時記」でお読みください。
2021.01 江戸の米①【江戸の町は米が常食だった】
2021.02 江戸の米②【白米の常食は江戸煩いを生んだ】
2021.03 江戸の米③【1日1回の炊飯だった】
2021.04 江戸の米④【江戸では朝、京都・大坂では昼に米を炊いた】
2021.05 江戸の米⑤【米の多くが酒造米として消費されていた】
2021.06 江戸の米⑥【酒造制限という米の消費制限策があった】
2021.07 江戸の野菜①【江戸近郊での野菜栽培】
2021.08 江戸の野菜②【江戸の野菜市場】
2021.09 江戸の野菜③【ブランド野菜の登場】
2021.10 江戸の野菜④【朝鮮通信使への御土産だった練馬大根】
2021.11 江戸の野菜⑤【大量生産された沢庵】
2021.12 江戸の野菜⑥【練馬大根を沢庵に加工した馬琴】
2021.03 江戸の米③【1日1回の炊飯だった】
白米を常食にしていたとはいえ、炊飯となると各家庭にとっては一仕事になります。電気やガスもない以上、現代と違って、あたかも毎日が飯ごう炊爨の状態だったからです。薪などの燃料費も掛かりました。
そのため、大勢の使用人を抱える裕福な商家は別として、経済力に乏しい町人などは毎食ごとの炊飯はとても無理で、1日に1回が限度でした。つまり、1日3食分を1度に炊いたのです。
江戸時代の社会風俗書として知られる喜田川守貞の『守貞謾稿』という書物があります。江戸と上方(京都・大坂)を対比して解説を加えているのが特徴の書物でですが、そうした事情は炊飯の解説にもあてはまります。
江戸に次ぐ大都市である大坂や京都でも白米を常食としていました。それだけ、白米が安く買えたのですが、面白いことに江戸と上方では炊飯の時間が違っています。炊飯事情から食文化の違いが見えてくるのです。
2021.04 江戸の米④【江戸では朝、京都・大坂では昼に米を炊いた】
江戸時代の社会風俗書である喜田川守貞著『守貞謾稿』によれば、江戸では朝に米を炊いて味噌汁と一緒に食べるのが慣習でした。昼は朝に炊いた御飯の冷や飯で済ませ、食膳には野菜や魚を添えました。夕食は引き続き冷や飯で済ませました。つまり、茶漬けに香の物を添えるのが習いでした。
一方、京都・大坂では昼に米を炊き、煮物や魚類、味噌汁など2、3種類のおかずを添えるのが定番でした。夕食と朝食は昼に炊いた御飯の冷や飯で済ませ、香の物を添えました。3食のうち、江戸では朝食時、京都・大坂では昼食時に炊飯し、残り2食は冷や飯で済ませたのです。
一方、生産者たる農民の大半は普段米を食べませんでした。年貢米を御領主様に納めても手元に半分以上は残る計算でしたが、大半は換金のため売り払って生活費に充てたため手元にはあまり残らなかったのです。
農民は主に麦や粟・稗などの雑穀を常食としました。あるいは米を若干混ぜただけの食事でした。米つまり白米だけ食べるのは、お正月などの「ハレ」の時に限られていました。