江戸の果物⑥【江戸でも栽培された葡萄と梨】
果物は近郊農村や諸国から供給されただけではありません。江戸の町では、自宅の庭で果物を栽培する事例が珍しくありませんでした。
例えば、『南総里見八犬伝』などの作品で知られる戯作家の曲亭(滝澤)馬琴は、屋敷の庭で柿・桃・梨そして葡萄などの果物を栽培しています。自家用のみならず、これを売って現金収入を得ていた様子も日記から分かります。
なかでも、葡萄の木はかなり大きかったのですが、その分目立ちやすく盗難にも遭っています。柘榴も度々盗まれました。
なお、馬琴が自宅の庭で作っていた梨については、武蔵国橘樹郡宿河原付近(現在の稲城市域や川崎市域)で栽培された「多摩川梨」、下総国葛飾郡八幡(現千葉県市川市)で栽培された「八幡梨」が江戸っ子の間で人気がありました。
柿の場合は、「立石柿」と呼ばれた現在の長野県飯田地域の柿の人気が高かったようです。将軍に献上された柿であったことも高い人気を誇った理由でしょう。
江戸の菓子①【長命寺桜餅の誕生】
今回からは6回にわたって、江戸の菓子にまつわる話を御紹介します。いつの世も甘いお菓子は人気がありますが、江戸時代は多種多様な菓子が次々と誕生した時代でもありました。花見文化から生まれた桜餅はその一つです。
春になると隅田川堤(墨堤)に咲き乱れる桜は、江戸も今も春の盛りを告げる光景です。花見のため隅田川堤に人々が押し寄せる光景も同じですが、そんな桜の季節の菓子として、江戸時代以来今も高い人気を誇るのが「長命寺桜餅」でした。隅田川沿いには、桜餅の起原となった長命寺が今も立っています。
桜が散ると、大量の落ち葉が生まれますが、それに目を付けたのが長命寺の門番でした。塩漬けした落ち葉で餡入りの餅を挟み販売したのです。これが「長命寺桜餅」のはじまりですが、ちょうど桜の花見の時期に売り出されたことで、たいへんな人気を呼びました。
曲亭馬琴の『兎園小説』によれば、文政7年(1825)には桜餅製造のため塩漬けされた桜の葉が77万5000枚にも及んだといいます。当時は餅1つに桜の葉が2枚使われたため、年間38万7500個の桜餅が製造された計算でした。桜餅の人気ぶりが良く分かる数字です。